「日本国憲法はGHQが作ったもの」と聞くと、どう思うでしょうか。
また、日本国憲法は70年以上経過した現在まで、一度も改正されていません。これは、世界の様々な国と比較して、かなり異様なことです。
今回は、そんな日本国憲法成立の過程について解説していきます。
アジア・太平洋戦争の終わり
まず、日本国憲法を理解するには、第二次世界大戦についても知っておく必要があります。
1939年にヨーロッパで始まった第二次世界大戦ですが、日本は1941年にアメリカとイギリスに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争が始まりました。
そして、様々な出来事がありましたが、1945年の8月14日にポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏することを決め、9月2日には日本の代表が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて正式に降伏文書に署名しました。
終戦後に、敗戦国となった枢軸国に対する戦後処理が行われました。
ドイツに対する戦後処理

ドイツに対する戦後処理は、1945年6月5日に発表されたベルリン宣言に則って行われました。
ナチスドイツは完全に壊滅しており、ドイツには政府が存在しなかったため、アメリカ、イギリス、フランス。ソ連で統治されることになりました。
その後、1949年にドイツ連邦共和国と、ドイツ民主共和国がそれぞれ独立するまで、4か国によって占領されていました。
ドイツ連邦共和国の成立に際して、アメリカ、イギリス、フランスにベネルクス三国を加えたロンドン会議が開かれ、「州の権限を強めるために二院制を敷くこと」、「州や連邦の紛争を調停するための裁判所を設立すること」などを含む憲法を制定すべきだという、「ロンドン勧告」が発表された。
しかし、ドイツの各州の首脳や国民は激しく反発し、州首脳会談では、憲法は制定するが、それがドイツの国民が自由な自己決定を行えるまでの暫定的なものであるから、憲法ではなく、「基本法」とすることとしました。
最終的にドイツ側の主張が認められ、ドイツ国民自身の手で憲法策定の作業が進められ、議会評議会で基本法が採択されました。
一方、ドイツ民主共和国では、1946年にドイツ社会主義統一党が憲法草案を発表し、1949年にドイツ民主共和国憲法が成立し、即日施行された。
そして、ドイツ再統一後も、新しい憲法は制定されず、ドイツ連邦共和国基本法を全ドイツに適用するために一部を改正しただけだった。
イタリアに対する戦後処理

イタリアは、ムッソリーニの後を継いだバドリオ政権が早々に連合国と休戦した後、ドイツが降伏するまで対ドイツ戦に参戦していた。
戦後、連合軍の占領下に置かれたイタリアでは、国民投票によって王政が廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。
そして、1947年には、イタリア国民自身が自主的に作成したイタリア共和国憲法が公布され、翌年に施行された。
日本に対する戦後処理

ここまで、主な枢軸国であるドイツとイタリアに対する戦後処理について解説してたのは、日本に対する戦後処理だけが明らかに異質だったことを示すためです。
1945年8月14日にダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官に就任し、同年10月2日には、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置されました。
GHQは、占領下の日本を管理するための最高機関として、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連、中華民国などの連合国による「極東委員会」で、設置が決められた機関でした。
GHQは連合国から派遣された最大43万人の組織だったが、実際はマッカーサーを頂点としたアメリカ陸軍によってコントロールされていた。
事実、イギリス連邦占領軍が中国・四国地方を担当したが、それ以外の都道府県は全てアメリカ占領軍が担当しました。
そして、GHQは日本を占領するに際して、ドイツのように直接統治するのではなく、GHQのやりたいことを日本政府に指示して実施させるという「間接統治」を行いました。
主な枢軸国であるドイツ、イタリアでは、国民自身が自主的に作成した憲法を適用しているのは、上で述べた通りです。
しかし、日本国憲法はGHQの作成した草案を基に作られたものです。
世界は広いと言っても、他国が作った憲法を自国の憲法としている国は日本ぐらいです。
更に、その他国が作った憲法を70年以上経過した現在でも一度も改正していないというのは、日本以外の国では考えられないことなのです。
日本国憲法の成立

ここからは、日本国憲法の成立過程を解説していきます。
そもそも、日本政府は憲法改正に消極的でしたが、GHQから憲法改正を示唆されたため、1945年10月25日に松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が設置されました。
その後、日本側から憲法改正案がいくつか示されましたが、いずれも「大日本帝国憲法」を改正するという案でした。
一方、マッカーサーは1946年2月3日に憲法改正に際して守るべき三原則を示した。
- 天皇は国の元首の地位にある。
- 国家の主権的権利としての戦争を放棄する。
- 日本の封建制度は廃止される。
ここで、「天皇は国の元首」となっており、3番の「封建制度の廃止」と矛盾しているように思いますが、ここでは、「華族」の特権を廃止するものであり、皇族の権利は維持されます。
しかし、当時の日本はまだGHQの占領下にあり、主権を回復していませんでした。
国際法において、「一国の主権が侵害されている時に、その国の根本的な法体系や憲法を占領国が変えてはならない」とされていますが、GHQはこれを無視して、GHQ草案を押し付けました。
その後も、日本側は独自の憲法改正案をGHQに提出したが、尽く否定された。
そこで、日本政府は閣議でGHQ草案に沿う憲法改正を行うという方針を決め、日本政府案の作成に着手した。
そして、日本政府案をGHQに提出後、確定案作成のためにGHQの民生局員と協議し、作業を終了した。
こうして作られた確定案は1946年3月6日に「憲法改正草案要綱」として発表され、その後、ひらがな口語体での条文化がすすめられ、4月17日に「憲法改正案」として公表された。
実は、この憲法改正の動きは、アメリカ本国や極東委員会も知らないままGHQが秘密裡に勧められた。
本来、GHQの上部組織である極東委員会はマッカーサーに対して、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、総選挙の延期を求め、憲法改正問題について協議するためにGHQから極東委員会に係官を派遣するように要請した。
しかし、マッカーサーは極東委員会の指示を無視してGHQ主導による憲法改正を強引に進めていった。
その後、幣原内閣の総辞職と吉田内閣の成立に伴って、草案の一時撤回や修正の追加などを経て、枢密院本会議で美濃部達吉顧問官を除く賛成多数で「憲法改正草案」が可決されました。
続いて、6月20日には、「帝国憲法改正案」が大日本帝国憲法73条の規定に則って議会に提出され、6月25日には衆議院本会議に上程され、6月28日に蘆田均を委員長とする帝国憲法改正委員会に付託されました。
帝国憲法改正委員会での審議は7月1日から始められ、7月23日には修正案作成のため小委員会が設置されました。
小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開で懇談会形式で進められ、8月20日には「蘆田修正」などを含む修正案を作成しました。
蘆田修正のポイントは、第9条1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を、2項の最初に「前項の目的を達成するため」をそれぞれ追加したことです。
この蘆田修正によって、ついに日本国憲法が完成しました。
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