ガイ・フォークス・デイ/ナイト

歴史
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今回は、現代のハロウィーンに影響を与えた英国の祝日ガイ・フォークス・デイ/ナイトについて解説します。

ハロウィーンの名前の由来について知りたい方はこちら

ガイ・フォークス・デイ/ナイトとは?

ガイ・フォークス・デイ/ナイトは、11月5日の英国の祝日で、1605年に陰謀を計画する集団(ガイ・フォークスを含む)が議会を爆破しようとして未遂に終わったことを記念する日です。

1606年に祝日に制定されましたが、ハロウィーンの日に近いので、多くの共通点があります。
実際、17世紀に英国でハロウィーンが禁止された時、ガイ・フォークス・デイがハロウィーンの慣習の多くを吸収して存続させました。

ガイ・フォークス・デイは今日のハロウィーンで最も有名な風習トリック・オア・トリートにも影響を与えていると考えられています。

国会爆破未遂事件

火薬陰謀事件の露見とガイ・フォークスの逮捕(ヘンリー・ペロネ・ブリッグス作、1823年)

ガイ・フォークス・デイは1605年11月5日、英国議会の開会の日に国会議事堂を爆破しようとする計画が事前に発覚したことを記念するものです。
この謀反の主犯格はロバート・ロビン・ケイツビーであったが、ガイ・フォークス(スペインのカトリックからの支持を得るために、クリスチャンの名前であるガイドウ・フォークスを名乗っていた)が11月5日の早朝に国会議事堂の地下に樽36個の火薬を隠しているところを発見され、最初の逮捕されました。(ケイツビーは11月8日にビーチで暴徒に殺された。)

この謀反は、イングランドにおけるカトリックへの迫害がきっかけとなりました。
英国国教会を確立したエリザベス1世の長い統治の下で苦しんだ後、ジェイムズ1世(プロテスタントだが、カトリックに寛容な人物として知られていた)が即位し、カトリックの人々は希望を抱きました。
しかし、即位後のジェイムズ1世はカトリックへの弾圧を強化し、(カトリックの)聖職者を匿った者に対する罰は、思い罰金刑から死刑に強化されました。

ほとんどのカトリック信者は、武力による反逆に反対していましたが、暴力的な暴動しか残された手段はないと信じる者もいて、ケイツビーの一味は最終的に13人の謀反人を含むこととなりました。

この計画は、議会の開会日である11月5日に王族と上院議員を暗殺することだけでなく、ジェイムズ王の9歳の娘エリザベス王女を誘拐して傀儡にすることも含んでいましたが、実行前に発覚しました。

「モンティーグの書簡」と呼ばれる有名な証拠は、10月26日にモンティーグ卿が受け取った謀反を事前に警告する匿名の文書ですが、個人的に計画を知らされた上院議員(カトリックの議員には一部の情報が伝わっていた)が捏造したものかもしれないと考えられています。

11月1日にヘンリー・ガーネット神父(後に誤って謀反の首謀者とされ、1606年5月3日に処刑された)は、共謀者の何人かを万聖節の厳かなミサに連れていき、翌11月2日には万霊節のミサにも連れて行きました。

フォークスは様々な拷問で痛めつけられて瀕死の状態だったので、一人では絞首台に登ることも出来なかったが、1606年1月31日に絞首刑に処され、引き回された後に四つ裂きにされました。

事件後の大かがり火

ガイ・フォークス・ナイトの大かがり火(printerestより引用)

ガイ・フォークス等が起こした謀反に対する裁判、処刑は即座に十分に行われ、新聞の風刺画、演説、『火薬陰謀計画の発覚をめぐる談話』という本(ジェイムズ王自身が書いたとされるが、フランシス・ベーコンがゴーストライターを務めたと考えられている)などがありました。

謀反計画発覚と同じ日に、未然に事件を防いだことを祝う大かがり火が焚かれ、これが400年以上続く伝統となりました。

1606年1月に議会は、11月5日を「神による我々の救済への感謝とカトリック信者の非道を永遠に記憶するための祝日」に定めました。
英国国教会の『祈祷書』には、この日を祝うための特別な礼拝の祈りが書かれていましたが、1859年に廃止されました。

1647年に、議会によってクリスマスやイースター、万聖節や万霊節などのあらゆる祝祭が廃止されましたが、ガイ・フォークス・デイだけは残りました。
11月1日の万聖節も11月2日の万霊節も11月5日のガイ・フォークス・デイの祝祭に極めて近く、かつて万聖節や万霊節に関連していた伝統の多くがガイ・フォークス・デイに既に含められているというのが理由とされました。

ガイ・フォークス・デイの歴史

この祝日の伝統は、1677年頃には既に確立されていて、『1677年版プアー・ロビンの歳時記』(Poor Robin’s Almanack of 1677)には11月5日のことが次のように書かれています。

少年たちは
かんしゃく玉と爆竹で遊び
焚火は燃え上がり
夜を昼に変える

この日の伝統的な祝祭には大かがり火とマミングが含まれます。

マミング(Mummingまたはmummering)・・・デンマーク語の「mumme」に由来し、仮面でパレードをすることを意味する。

「ガイ」と呼ばれるグロテスクな人形がよく作られ、子供たちが物乞いする時に持ち歩き、やがて焚火に投げ込まれます。

その際に子供たちが口ずさむ詩は、ガイ・フォークス・デイの伝統のうち最も有名な者です。
ここでは、イングランド北部のいくつかの地域で聞かれる詩を紹介します。

おい、少年たち、おい、少年たち
鐘を鳴らせ
おい、少年たち、おい、少年たち
女王陛下に神の御加護あれ

11月5日を
忘れないよう祈れ
火薬陰謀計画だ
王とその取り巻きが
危うく殺されるところだった
だからこの日を忘れてはならない

ガイ・フォークス、ガイ・フォークス
そしてその仲間たちが
イングランドを破壊しようとした
だが神の慈悲がそれを防いだ
そして我らが王と議会を救ったのだ

ガイを捕らえた
その男は幸い
その日は幸い
ガイの芝居に松明を持って
土硫黄のマッチも持って
夜が明けるまで

暗い入口を通り抜ける時
悪魔の姿を見た
下がれ!下がれ!
メアリー女王の娘よ
ポケットをさぐって
僕たちにお金を
大かがり火を焚くための
フレー!フレー!

上記以外にも、時代や地域によって様々な詩が作られ、子供たちに歌われました。

ガイ・フォークス・デイの祝賀行事が急速に儀式化されるに従って弾圧されるようになり、子供が楽しむものに変わっていきました。(18世紀から)

ガイ・フォークス・デイは18世紀頃には英国中で秋一番の祝祭となり、スコットン村を除くほぼ全てのイングランドの村で祝われていました。
スコットンはガイ・フォークスが少年時代に住んでいた屋敷に近い村で、彼の亡霊が今でもこの村で動き回っていると考えられています。

ガイ・フォークス・マスクという、元々はガイ・フォークスの顔を基にして作られた仮面があります。
1982年の漫画『Vフォー・ヴェンデッタ』、及び2005年の映画化で、全体主義政府に抵抗する主人公がガイ・フォークスの仮面を付けていたため有名となり、政府への抗議運動などに(イギリス以外でも)使われるようになりました。

サイエントロジーに抗議する、ガイ・フォークス・マスクを着けたアノニマスのメンバー(2008年、ロンドン)(wikipediaより引用)

子供たちは手造りのガイ人形を持って集まり、「ガイのための1ペニーを」と言って焚火の資金を集めました。
そのお金は11月5日の夜の花火に使われることが多く、英国の一部の地域では、子供たちが家々を回って焚火のための石炭を集めました。

子供たちが長い押韻詩を唱えることも多く、いくつかのバリエーションが記録されています。
1892年のウースターシャーの記録には、以下のような押韻詩が残されています。

忘れていないか?
11月5日に火薬陰謀事件が起きたことを
あの事件を忘れていい理由なんか
どこにもない。
棒切れと杭を、ヴィクトリア女王のために
ご主人様が薪束をくれますように。
一束くれなきゃ、自分で二束取るまでだ
こっちの得は、そっちの損。

このように唱えながら、子供たちは「陰謀」「忘れ」「薪束」のところで、太い杭で地面を打ち付けたそうです。

別の地域では、子供たちが炭で顔を汚し、仮装して練り歩きました。
これらは、20世紀のアメリカで家々を回って行われたトリック・オア・トリートの風習の祖先かもしれません。

その他にも、ガイ・フォークスに扮して荷場車に乗ったり、棍棒を叩いて大きな叫び声を上げたり、音楽家たちが教会の屋根に立ち、国歌を演奏したり、地域によって独自の祭や風習も見られました。

火薬陰謀計画を記念して、ウェストミンスター宮殿(国会議事堂)の地下貯蔵庫は、今でも毎年議会開会に先駆けて国王護衛隊の特別班によって捜索されます。

1760年にオールド・ベラミーと呼ばれるワイン貯蔵庫が地下貯蔵庫の一部を倉庫として賃借して以来、この捜索に新しい儀式が加えられました。
捜索がポルトワインを飲んで締めくくられるようになったのです。

ルーイスでの大かがり火

Lewes Bonfire, Martyrs Crosses(ルーイスの大かがり火、殉教者の十字架) wikipediaより引用

ルーイスで最初の大かがり火の記録は1679年のものです。

1929年にはこの街のガイ・フォークス・ナイトで10万の松明が燃やされました。
今日の祝賀行事では、5つか6つの大かがり火の協会がそれぞれ行列、花火、大かがり火を催していますが、これらの協会が一堂に会し、「grand united procession」という行進を組織し、ガイ人形(その時代の不人気な人物を基に作られることも多く、爆竹で爆破して楽しむ)、楽団、旗、松明、そして仮装した2000人以上の参加者と共に、Lewes High Streetを1マイル(=約1.6km)以上を練り歩きます。
各協会はタールの樽を燃やしてウーズ川に投げ込み、この街の戦没記念碑を訪れます。

360 citiesで燃えている樽が回っている様子を360度写真で見ることができます。

クリフ協会

大かがり火の協会の中で最も古いのはクリフ協会であり、メンバーはヴァイキングの衣装を着て角の付いた兜をかぶります。

クリフでは1853年以前から11月5日を記念していましたが、一般的にはクリフの焚き火協会はその年に結成されたと考えられています。

クリフ協会は、「No Popery」(Poperyは、主に英語でローマ・カトリックに対する歴史的な侮蔑語)と書かれた旗を掲げ、ローマ法王や政治家の像を持って、反カトリックと愛国心に満ちた暴言を浴びせ、(像などを)燃やしました。

1906年に街頭火災が禁止されましたが、第一次世界大戦後には、クリフ教会は「No Popery」の旗やローマ法王の肖像の焼却など、伝統的な要素をすべて残して祝賀行事を復活させました。
1933年、当時の市長であったJ.C.Kenward氏が、問題となっている肖像画の撤去を協会に要請する手紙を出しましたが、協会はこれを拒否しました。

真の焚き火の伝統を維持しようとした結果、協会は他のルイスの焚き火協会から追放されてしまいました。
1950年代、大かがり火の評議会はクリフの連合大行列への参加に、「No Popery」の旗を掲げないことを条件に参加を認めましたが、クリフはこの申し出を拒否しました。
現在ではルーイスの大かがり火の評議会の活動に全面的に参加していますが、協会は「united procession」への参加を拒否することで独立性を保っています。

焚火の危険と規制

ルーイスの祝賀行事にも是非を巡って議論されてきた歴史があります。
1779年には焚火を禁止しようとする試みがあり、市役所の前に「焚火や花火をやめろ」という趣旨の警告文が貼りだされました。

19世紀の間、市当局は再び危険な祝賀行事を抑止しようと試みて、1847年には対立が頂点に達しました。
最終的には妥協が成立し、「焚火少年」たちが群集の行動に責任を持つということで合意しました。

アメリカでのガイ・フォークス・ナイト

ガイ・フォークス・デイの祝賀行事が大西洋を渡ってアメリカに伝わると、この日は教皇の日となり、反カトリック的感情を祝福する日となりました。
教皇の日、あるいは大かがり火の祝祭は急速に無秩序になっていき、ジョージ・ワシントンも「馬鹿らしく幼稚」と批判したほどで、1746年のアメリカの年鑑には次のように書かれています。

火薬陰謀計画は忘れない
大勢の飲んだくれが祝い続けるだろう

その後、この日はアメリカ東海岸の諸都市では、19世紀末まで(あるいはハロウィーンがアメリカに定着するまで)祝われていました。
アメリカではガイ・フォークス・デイの騒ぎを起こす人々は、カボチャのランタンと鳴り物を持って、いたずらと焚火(とダンス)に夢中でした。

18世紀以降、アメリカでの祝祭は独立運動に関わる政治的運動を伴うようになりました。
1774年(独立戦争は1775年~)に作られた人形には、ノース卿(当時の英国首相)、トマス・ハッチンソン(マサチューセッツ州の保守派州知事)、教皇、悪魔(紅茶の缶をかたどったランタンを持っていた)などがあり、これらが一斉に燃やされました。

アメリカの祝賀行事は子供だけで行うことも多く、幼い少年たちが教皇の人形を板や小さな荷車に乗せて巡回することがよくあり、夜になると少年たちは教皇の人形、悪魔、その他様々な宗教的キャラクターを主役にしたタブロー(活人画)を、大きな荷馬車の上で演じました。

こうして家々を訪ね歩き、次のような詩を暗唱しました。

11月5日は
よく知られているとおり
火薬陰謀計画の日だった
理由は知らないが
火薬陰謀計画を忘れてはいけない
(中略)
ここに教皇がいる
この陰謀の主唱者だ
干し草フォークを背中に刺して
焚火の中に投げ込もう

少年たちは募金を行い、宴会と人形焼きでこの祭りを終えます。

アメリカのいくつかの地域では、ガイ・フォークス・デイの祝祭は1775年以降中止になったが、それは独立戦争で味方だったフランスの意向に従ったものでした。
アメリカでは11月5日の祝賀行事は1833年に完全に廃止されました。

19世紀末には、教皇の夜はその意味を完全に失い、一部の地域に残っていた形骸化した夜祭は「豚肉の夜」(Pork’s Night)と呼ばれていました。

ニュージーランドでのガイ・フォークス・デイ

ガイ・フォークス・デイは大英帝国の他の地域でも祝われていました。
ニュージーランドでは、次のような詩を暗唱していました。

11月5日を覚えていて幸いだ
火薬陰謀事件の日だ
なぜ火薬陰謀事件を忘れてはいけないのか
理由は知らないけれど
地下に隠された20と4の樽が
イングランドを吹き飛ばす
その夜は幸い、その日は幸い
ガイ・フォークスが地下に潜るのが見つかって
ランタンとロウソクを手に持って
出て行け!出て行け!薄汚い老いぼれめ!
おーい、おーい、少年たち、王に神の救済あれ
1ポンドのチーズでガイを窒息させろ
一瓶のビールで洗い流せ
楽しい焚火で焼いてしまえ
もうすぐクリスマス、豚も太っている
ガイの帽子に1ペニーを
1ペニーがなければ半ペニーでもいいよ
半ペニーがなければ、神の祝福あれ

この詩を最も上手く(あるいは最も大声で)暗唱した子供に賞金が与えられることがよくありました。

1949年頃までには、この詩はずっと短く簡単なセリフ「ガイのための1ペニーを」に置き換えられていました。

ガイ・フォークス・デイ特有の食べ物

この日に特有の食べ物として、「ボンファイアー・パーキン」(Bonfire Parkin)というオートミール(または小麦粉)と糖蜜と生姜などで作る重いケーキがあります。

ボンファイアー・パーキン(Bonfire Parkin Recipeより引用)

リーズ(イングランド北部の都市)などでは、このケーキがあまりにも人気があるので、ガイ・フォークス・デイを「パーキンの日」と呼ぶこともあります。

他にも、サー(Thar)・ケーキ、またはサーフ(Tharf)・ケーキと呼ばれる一部の地域特有のビスケットもあり、これは古代スカンディナヴィアの雷神・農耕神トール(Thor)の祝祭にちなんで命名された可能性があります。

サー・ケーキ(THE FOODS OF ENGLAND PROJECTより引用)

また、「ボンファイアー・トフィー」(Bonfire Toffee)と呼ばれるバターと黒蜜、砂糖などで作る菓子もあります。

ボンファイアー・トフィー(Wikipediaより引用)

ダービーシャー州では、サーフ・ケーキを作るために1年中倹約して、毎年別の家に集まって一緒に食べる「サーフ・ケーキの集い」と呼ばれる習慣があります。
1898年の新聞記事によれば、11月5日にスポンジケーキを箱に詰めて公務員に送る習慣があったことをある紳士が証言しており、このことについて「もしその起源にまで遡ることが出来たなら、それは万霊節の『ソウルケーキ』かもしれない」と推測しています。

参考

・ハロウィーンの文化誌 単行本 – 2014/8/21 リサ モートン (著), Lisa Morton (原著), 大久保 庸子 (翻訳)

・図説 ハロウィーン百科事典 単行本 – 2020/10/15 
リサ・モートン (著), 笹田 裕子 (翻訳), 安藤 聡 (翻訳), 杉村 使乃 (翻訳), 成瀬 俊一 (翻訳)

Oxford Reference Lewes Bonfire Night

・アイキャッチ画像(一番上に表示されている画像)はwikipediaより引用

Cliffe Bonfire Society A Brief History of Cliffe Bonfire

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