現代のハロウィーンに関するイラストの多くには、「トリック・オア・トリート」のカボチャが登場しますが、それ以外にも、魔女、(黒)猫、箒、悪魔なども度々描かれています。(日本ではカボチャの絵がほとんどかもしれませんが)
今回は、それらがどうしてハロウィーンのシンボルとも言うべき存在になったのかを解説します。
ハロウィーンの進化
ハロウィーンは、ケルト人のサーウィンという祭がキリスト教の万聖節、万霊節という祝祭に取り込まれ、そこから更に進化、発展したものです。
ハロウィーンに関する記録が現れ始めた14~15世紀頃から現在に至るまで、ハロウィーンは様々な宗教的祝祭や行事、社会情勢などに影響され、幾度となく変化してきました。
黒死病(ペスト)の流行

1346年、黒死病(ペスト)が西半球全体で猛威を振るい始めました。
ピークは1350年頃で、ヨーロッパの人口の60%に当たる人々が命を落としたとされています。
人が大量に死亡したことにヨーロッパ中がうろたえ、そのことで大衆文化に変化が生じました。
死のイメージを、憑りつかれたかのように、芸術に取り込み始めたのです。
疫病が広まったのと同時に、印刷物も流布されました。
生き残った人々は、薄気味悪い骸骨を描いた「死の舞踏」の絵を様々な場所で見るようになりました。(上の絵画以外にも、無数に存在する)
骸骨として描かれた死神の絵に人々が抱いた妄想にも似た思いは、死者が生ある者の世界を訪れてくる夜と考えられた祝祭の中に取り入れられていきました。
魔女狩りの時代

黒死病(ペスト)に続いて登場したのが「魔女狩り」でした。
1480年頃に始まり、何万人もの人々(主に女性だが、男性もいた)が魔女であるとして、投獄されたり、斬首されたり、絞首刑にされたり、火刑柱に打ち付けられたまま火あぶりにされたりしました。
魔女たちは疫病を作り出したり広めたりして殺人を犯したと告発されただけでなく、魔女狩りの手引書とも言うべき『魔女に与える鉄槌』といった論文のせいで、悪魔と関係づけられ、悪魔と性的に交わったとして告発されることもありました。(『魔女に与える鉄槌』では一章全体を費やして「悪魔と交わる魔女について」記されている)
魔女裁判は告発された人々の財産を差し押さえることで、封建領主とキリスト教会を潤わせ、女性による家事の3つのシンボル、箒、大釜、猫とともに描かれる意地悪そうな老女としての魔女のイメージを定着させました。
一部の裁判では、オール・ハロウズの日に集会及び「魔女の宴会」(サパト)に参加したことが告発の理由となりました。
そのような被告から、オールハロウズを魔女と悪魔の一大祝祭とする選択の機会が、行政的議題を念頭に、引き出されたことは明らかであり、1509年に王位を継承した英国王ヘンリー8世は、英国国教会をローマ教皇庁から分離しようとし、その争いは娘のエリザベス1世に継承されました。
ヘンリー8世もエリザベス1世も万聖節を教皇側の祝祭であると見なし、その祝賀の抑制を目的とした宣言を発布しました。
ヘンリー8世は鐘の打ち鳴らしを禁止しましたが、エリザベス1世はその禁令を拡大し、「オールハロウの季節および万霊節(11月2日)、そしてその前後二晩に鐘を打ち鳴らす迷信」を禁止しました。
見世物的魔女裁判はプロテスタント国王であるジェームズ1世の治世にも行われ、1590年、数十人のスコットランド人が告発されました。
告発の理由は、国王が許嫁であるデンマーク王室のアンのもとに行くのを、ハロウィーンの夜に集結し、老朽船で海に乗り出し、生きた猫を人間の手や足に縛り付けて海に投げ込み、嵐を巻き起こして妨害しようとしたというものでした。
ハロウィーンが魔女、猫、箒、大釜、悪魔と結び付けられるようになったのは、この一連の悪名高きノース・バーウィックの魔女裁判以降のことなのです。
ハロウィーンと悪魔

悪魔はハロウィーンについて言及される時には、サタン(Satan:ヘブライ語で「敵」)、ルシファー(Lucifer:ラテン語で「光をもたらす者」)、ベルゼブブ(Beelzebub:ヘブライ語で「蠅の王」)、メフィストフェレス(Mephistopheles:ファウスト伝説に登場する悪魔)、ベリアル(Belial:ヘブライ語で「無価値」)など様々な名で頻繁に登場します。
他にも、悪魔は婉曲的に「古いひっかき傷」(Old Scratch)、「老いた好色家」(Old Horny)、「老いた好色家」(Old Horny)、「老いた偶蹄」(Auld Cloots:clootsはスコットランド方言で「偶蹄」)、ディケンズ(The Dickens:悪魔という意味)、「悪しき者」(The Evil One)、「悪の第一人者」(The Prince of Evil)などと呼ばれることもあります。
一部の歴史家からは、そもそも悪魔とは古代ギリシア人の牧神パン(羊飼いと羊の群れを監視する神)、ケルト人のケルヌンノス(狩猟・冥府の神)をはじめとする異教の有角神を悪のシンボルに転身させる方法として誕生したのではなかったかと言われています。
最初にハロウィーンに関連して登場した時、悪魔は魔女の神、協力者、リーダーでした。
ハロウィーンの晩に魔女が悪魔と踊ったという話は枚挙にいとまがなく、スコットランドの子供たちは、ハロウィーンの翌日に猫がぐったりとしているのは悪魔との宴へと魔女たちを運んだからだと思い込まされていました。
多くの占いで、呪文は悪魔の名において唱えられ、アバティーン(スコットランドの都市)の子供たちは消えゆくハロウィーンの焚火を離れる時、「一番後ろになると、悪魔に連れていかれるぞ」と大声で叫んだという。
しかし、20世紀の到来とともに、悪魔はユーモラスな小鬼同然に格下げされ、大抵の場合、角と尾のついた赤いコスチュームで描かれていたり、紙製の風変わりなデコレーションとなって登場したり、カラフルなポストカードでは、魔女の引き立て役を担ったりもしました。
ハロウィーン・パーティが開かれると、食べ物に悪魔が登場することさえあって、悪魔のケーキ、悪魔の卵と呼ばれるものが10月のメニューにしばしば現れました、
また、コスチュームが大量生産されるようになった20世紀後半には、悪魔は永遠のベストセラー商品ともなりました。
それでも、商業化の波に飲み込まれてしまうかと思った矢先、悪魔は蘇ったのです。
20世紀後半の原理主義的キリスト教集団がハロウィーンに「悪魔の誕生日」という新しい名前を付けました。
キリスト教関係の書物、ウェブサイトでは、ハロウィーンは「この世の敵サタンと密接に結びついている」という主張がなされ、トリック・オア・トリートをはじめとするハロウィーンのあらゆる活動に子供たちを参加させないように、父兄への呼びかけがなされました。
こうした人々が、ハロウィーンの邪悪な起源を証拠づけるものとして、しばしば引用するのがヴァランシー(数々の誤りや戯言を記録した自称・学者兼著述家)で、中には協会主催の「収穫祭」さえ、10月31日のハロウィーン活動のすり替えだとして非難する人もいます。
参考
・ハロウィーンの文化誌 単行本 – 2014/8/21 リサ モートン (著), Lisa Morton (原著), 大久保 庸子 (翻訳)
・図説 ハロウィーン百科事典 単行本 – 2020/10/15
リサ・モートン (著), 笹田 裕子 (翻訳), 安藤 聡 (翻訳), 杉村 使乃 (翻訳), 成瀬 俊一 (翻訳)
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