サーウィン:ハロウィーンの起源

歴史
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ハロウィーンの起源がアイルランドにあるということを知っていますか?

ハロウィーンというのは、非常に長い歴史を持っていますが、意外にも、ハロウィーンが歴史家、民族学者、著述家の本格的な研究対象となったのは、ここ30~40年ほどのことであり、現在でも明らかになっていないことも多いのです。

それでも、現代のハロウィーンの祝典に単独で最大の影響を及ぼしたと考えられているのが、アイルランドに住んでいたケルト族の祭、サーウィン(英語ではSamhainと呼ぶ)なのです。

「サーウィン」に関する誤り

ハロウィーン、及びサーウィンに関する研究や書籍の数々の中には、現在でも販売されているものも含めて、多くの誤りや根拠のない仮説が展開されていることがあります。

「サーウィン」が10月31日の晩に崇拝されたケルト族の死者の神の名前であるという通説は、その典型的な例です。

「サーウィン」を初めて「死の君主」と定義づけたのは、18世紀に活躍した(自称)学者兼著述家のチャールズ・ヴァランシーでした。

英軍の測量技師だった彼は、調査のためにアイルランドに派遣された後、40年近くをアイルランド島で過ごし、その島の言語、歴史、民間伝承に関する幅広い著作を残しました。

ヴァランシーの考えは、トマス・ダドリー・フォスブローク牧師が1825年に刊行した評判高い『古代遺物百科事典』の中でも紹介されましたが、1818年の『ロンドンクォータリーレビュー』において、「ヴァランシーは同時代の誰よりも多くの戯言を書いた」と酷評されているように、彼の記録の大部分は誤ったものでした。

ヴァランシーが三作目の『謎のアイルランド人についての抜粋集』(Collectanea de Rebus Hibernicis)を発表した際には、既に別の言語学者が「サーウィン」に「夏の終わり」という訳語を与えていました。
しかし、彼は「サーウィンはバルサブ、すなわち死の君主と呼ばれていた。<バル>は君主、<サブ>は死という意味である」と述べ、自説を信じて疑いませんでした。

ヴァランシーの著作は英国中の図書館の書架に収められ、「サーウィン」の奇妙な異説史(及びそれを継承するハロウィーン)を生み出すこととなりました。

ヴァランシーが最初にアイルランドを訪れてから2世紀近くの歳月が流れても、1950年に記された『20の世紀を超えたハロウィーン』(Halloween Through Twenty Centuries)などの書物には、「サーウィン=死の王」と言及されていました。
更に、1990年代初頭には、アメリカ中のキリスト教団体が「捧げものとして人間を焼くことで死の主サーウィンを宥め、その歓心を買おうとするような」祝祭(ハロウィーン)を子供たちに祝わせないようにしようと父兄に呼び掛けたりもしました。

実際には存在しなかったとされる古代ローマのポモナ祭について知りたい方はこちら

「サーウィン」という祭

ゲール語(古アイルランド語)でラ・サウナ(Lá Samhna)は11月1日の呼び名であり、サウラ(samhradh)は夏の呼び名でした。
そこから、サーウィン(Samhainn)は「夏の終わり」と訳されました。

ケルト族の伝統では、サーウィンはケルト族が催す4つのキャウン・フェイレ、すなわち大祭(節季)のうち最大のもので、新年祭でした。(他の大祭は2月1日のインボル、5月1日のベルテーン、初収穫を祝う8月1日のルーナサ。)

全てのケルト系の祭は農耕か家畜のいずれかと関係がありました。
ベルテーン(穀類が植えられ、家畜が牧草地に出される時)とサーウィン(家畜が冬に備えて屋内に入れられる時)が暦上の主要点であり、インボル(雌羊の乳の分泌と関係づけられている時)とルーナサ(夏至の祝賀)がその中間に位置していました。

サーウィンで行われたこと

サーウィンの実際の儀式と活動は、詳細な内容はほとんど分かっていません。
ケルト族は文書よりも口述で歴史を記録したからです。

実際、ヨーロッパ本土のケルト族がサーウィンを祝った記録は何もないので、元来はアイルランドのケルト族だけが祝った祭だったのかもしれません。

サーウィンに関する記録は主として、ケルト族の言葉で書かれた文学の中に見出せます。
それらはまず僧侶たちによって記録されたため、ある程度キリスト教的な解釈で脚色されていると考えられています。

サーウィンは、ケルト神話によると、当日の前3日間と後3日間続いたとされている祭です。

サーウィンと農畜産業

サーウィンはおそらく、冬に備えて家畜を屋内に入れることから始まったと考えられています。
丈夫な家畜は群れを繁殖させるために取っておき、弱い家畜は殺されて、冬の食料とパーティーの食料となりました。
というのも、冬の数か月間に全ての動物に餌を与えるのは困難であったからです。

サーウィンの時期に家畜を殺す習慣は、イギリスの多くの地域で続きました。
例えば、1930年代までウィルトシャー州地域のほとんどの村には、この季節にいつも超多忙の公職の豚畜を殺す人が一人いました。

また、収穫物(大麦、リンゴ、オート麦、小麦、カブなど)の残りも、この時期に取り込まれました。(11月1日以降に取り残されているあらゆる農作物は精霊や妖精によって食用に適さなくされている、という信仰が後年のアイルランド人に見られた。)

サーウィンと娯楽・政治

サーウィンの残りの時間は、政治と宗教が混合した諸活動に当てられました。
アイルランドの5つの州の大集会がターラの丘で催されました。

ターラの丘には最初は粗野なフィアボルグ族の上級王たちの王座が、後に偉大なトゥアハ・デ・ダナーン族の王座がありました。(ケルト神話より)

ターラで催されたサーウィン祭では、競馬、市、政治討論、宴会、飲酒が行われました。
サーウィンの宴会はたいてい湖の岸辺で催されました。(泉、湖、川などの水の集まりにケルト族は深い畏敬の念を抱いていた)

10月31日の晩(ケルト族は時を昼ではなく夜で数えたので、実際のサーウィンは10月31日の晩だったかもしれない)、全ての家の火が消され、ドルイド僧たちが新しい火(清めの火)を使って、トラフタの丘(ターラから約12マイル=約19km)で焚火をする儀式を執り行いました。
この火の燃えさしが各家庭に配られ(その見返りとして王に税金を支払った)、そこで新たに火が起こされました。

サーウィン祭は単なる祭でなく、行政的にも重要な日でもありました。
この日に借金の返済と裁判が執り行われ、重罪と見做された者は3日間のうちに処刑されました。
また、誰であれ、慣習に従わない者は破門されました。(既に破門されている者と付き合う者も、同様に破門された)

サーウィンと宗教・神話・霊

ウィッカーマンの想像画(18世紀)

サーウィンの最も重要な側面は、おそらく政治ではなく宗教でした。

ドルイド僧たちはこの夜に、彼らの民に穏やかな冬を恵んでくれるよう神々を宥めることを望みつつ、生贄を捧げました。
生贄は人身御供、更には忌まわしい「ウィッカーマン」(上の絵は18世紀に想像で描かれたもの)までも含まれていたようです。

ローマの歴史家たちによると、ウィッカーマンは大きな人間の形をした枝編み細工で、中に生贄の動物や人々が閉じ込められて燃やされました。(他の報告によると、この夜にドルイド僧たちは黒い羊を生贄にした)

この日に、男性の主神ダグダと女性の主神モリアンが来年の農作物の豊作と動物の多産を確かなものにするために性交しました。(ケルト神話より)
この神話の異なる言い伝えでは、女神が年の暮れであるサーウィンの前夜までに醜い老婆になるが、性交によって生気を回復して、若さと美しさを取り戻すそうです。

サーウィンと霊

サーウィンは2つの年の境であるため、異界への扉が開いて死者の霊が自由に彷徨い出てくる夜だと信じられていました。
死者たちが追悼され、(ルーナサでも類似の活動が行われた)帰郷する霊たちのために食べ物を出すのが慣習でした。

とはいえ、死者たちは悪意のある、人間ではない超自然的存在という場合もあるので、サーウィンの前夜は屋内にいるべきと考えられていました。

ケルト族の異界観は概して慈悲深いものでした。
あるアンヌーン(異界)は「陶酔の王宮」として描かれていました。
というのも、そこは英雄たちが美女たちと一緒にごちそうを食べ、酒を飲み、ときに争った場所だからです。

しかし、場合によっては危険をはらむ場所でもありました。
異界の領域に入ってくる死すべき定めの人間たちは、恐ろしい怪物に出くわし、しばしば滞在を強いられ、故郷に帰ろうとするまでは決して年をとらず、帰るとたちまち死んでしまいました。

サーウィンとケルト神話

ケルト族には豊かな神話体系があり、中でもサーウィンは際立っていました。
それが初めて現れたのはトゥアハ・デ・ダナーン族(ケルト族の神々)がアイルランドをフィアボルグ族から奪った時です。

その後、トゥアハ・デ・ダナーン族は悪魔のようなフォモーレ族に悩まされました。
フォモーレ族は腕と足が1本しかない怪物であり、一人の邪悪な巨人とその母親に率いられていました。

フォモーレ族は、サーウィンごとにトゥアハ・デ・ダナーン族の麦と子供の3分の2を儀式用の貢ぎ物として要求しました。トゥアハ・デ・ダナーン族がフォモーレ族に戦いを挑み、この怪物たちはほぼ敗北したものの、アイルランドの田舎を放浪して麦やミルク、果物や魚を略奪しました。
遂にあるサーウィンの夜、モリアンとアンガスオーグが怪物たちの残党をアイルランドから追い出したため、フォモーレ族は海の向こうの王国に帰郷しました。

アンガスオーグ・・・元々は若さ、愛、夏、詩に関連する神であったと考えられている。男性の主神ダグダとボアン(アイルランドのボイン川の女神)の息子である。母ダグダはネクタンと結婚していたのでボアンとの関係を隠すために太陽を9ヶ月間静止させたことで、ボアンは1日で妊娠し、そして出産した。

別のサーウィンに関する物語では、この祝日とドルイド僧の関わりを強調しています。

サーウィンの前夜に、アイルランド王ダヒ(紀元後405~428年)がドルイドの丘にいました。
王は家臣のドルイド僧に来年の出来事を予言するように命じました。
ドルイド僧は丘の頂上に行ってその夜を過ごした後、夜明けに戻り、ダヒをエリン(アイルランド)とアルバン(スコットランド)の王と呼びました。

こうしてドルイド僧はダヒがアルバンとブリテン島とガリアを征服遠征することを正しく予言しました。

変化するサーウィン(とハロウィーン)

18世紀中頃にイギリス諸島でユリウス暦からグレゴリウス暦に代わった時、実質的に2つのサーウィンの祝典が生み出されました。

それ以降、11月11日はイーハ・ヘン・サーウィン、すなわち「オールド・サーウィン・イヴ」として知られるようになり、11月12日はラ・ヘン・サーウィン、すなわち「オールド・サーウィン・デイ」となりました。

ほとんどの慣習と信仰は、サーウィンとハロウィーンを「新しい」10月31日または11月1日に移しました。

一方、ほとんどの地域では11月11日は聖マルタン祭として祝われるようになりました。

聖マルタン祭・・・11月11日に行われる、ヨーロッパ広域の祝日で、サーウィンに類似する、ドイツのキリスト教以前の新年の祝いとして古くから記録されてきた。

サーウィンはキリスト教の祝日である万聖節と万霊節におおむね吸収されたものの、アイルランドのある地域ではサーウィンがそのままの名称でケルト時代から今日まで祝われています。

また、現代の新異教主義や新ドルイド教のグループもサーウィンとして祝っています。

新異教主義・・・一般的には、多神教、アニミズム的な信仰を持っている人々を指し、魔術崇拝者、改宗したドルイド僧、オーディン崇拝者、フェラフェリア(女神崇拝)、その他などがある。

サーウィンからハロウィーンへの移行の過程について詳しく知りたい方はこちら

参考

・ハロウィーンの文化誌 単行本 – 2014/8/21 リサ モートン (著), Lisa Morton (原著), 大久保 庸子 (翻訳)

・図説 ハロウィーン百科事典 単行本 – 2020/10/15 
リサ・モートン (著), 笹田 裕子 (翻訳), 安藤 聡 (翻訳), 杉村 使乃 (翻訳), 成瀬 俊一 (翻訳)

・一番上に表示されているイラスト(SAMHAINと描かれたイラスト)はVecteezyからダウンロードしました。

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