ニーチェの人生

哲学
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今回は、哲学者として有名なフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの人生について解説していきます。

※この記事では、哲学的な思想についての解説はほとんどありません。

ニーチェの思想について知りたい方は下記の記事をご覧ください。

生誕~少年時代


ニーチェは、1844年10月15日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。

父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。なお、ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている。

1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。しかし、父カール・ルートヴィヒはニーチェ5歳の時1849年4月30日に死去した。

また、それを追うように、1850年には2歳の弟ヨーゼフが歯が原因とされる、けいれんによって病死した。

男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師を頼って故郷レッケンを去りナウムブルクに移住する。

その後ニーチェは、6歳になる前に、ナウムブルクの市立小学校に入学する。翌年、ウェーベル(ウェーバー)氏の私塾(予備校)に入った。数年そこで学び、1854年にナウムブルクのギムナジウムに入学する。

ギムナジウムとは、ドイツにおいては、主に大学への進学を希望する子供たちが進学する8年制の学校であり、日本でいう中高一貫教育にあたる。

なお、私塾では、ギリシア語、ラテン語の初歩教育を受けた。

ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代を幸せだったこと、しかしその後父や弟が死んだ時の悲しみをギムナジウム時代に書いた自伝集で綴っている。また伯母や祖母の死もあったこと、そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えて来た事を語る。そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた。この時代はまだ神を信仰していたようだ

ある雨の日の話

市立小学校時代のニーチェの生真面目さが分かるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。

まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも拘わらずニーチェは一人雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、ニーチェは「校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから」と、述べたという。

青年時代

ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通った。

ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められていたプフォルタ学院に移る少し前、ニーチェの母は移住することを決めた。ニーチェは勉強やスポーツに励み、芸術や作曲に長けていた

プフォルタ学院は、元はシトー派の修道院で、16世紀に創立された、男子校のギムナジウムです。ニーチェの他、哲学者フィヒテ、ドイツ・ロマン主義の旗手シュレーゲル兄弟、ノヴァーリスなども輩出した名門校です。

ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院の校長から給費生としての転学の誘いが届き、ニーチェは入学する事を決心した。このとき、初めて、田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。

1858年から1864年までは、古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等で模範的な成績を残す。また、詩の執筆や作曲を手がけた。

大学生時代

1864年にプフォルタ学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。

そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事だった)。

また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルと出会い、師事した。

ニーチェは、このリッチュルのもとで文献学を修得している。そして、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する

また、1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。

ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があった出会いが、2つあった。ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったことである。

もうひとつは、1868年11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒに滞在していたリヒャルト・ヴァーグナーと面識を得られたことである。

バーゼル大学教授時代

1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招待された。

バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる)。

本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。

1872年、ニーチェは処女作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。

しかし文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本を称賛するものは一人もいなかった。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたヴァーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。

こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。

ヴァーグナーへの心酔と決別

生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なヴァーグナーのファンであり、1868年にはすでにライプツィヒでヴァーグナーとの対面を果たしている。ニーチェは、バーゼルへ移住してから、近くに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ23回も通った

ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、二人は年齢差を越えて親交を深めた。

ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第一作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。

1876年、『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーと自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのがかつての革命家ヴァーグナーでなく、ブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。

また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった

ヴァーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、二人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。1878年に書かれた『人間的な、あまりにも人間的な』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。


1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。

これらの4本(はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想を下敷きにしている。

1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。

翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。

バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。

在野の哲学者として

ニーチェは、病気の療養のために気候のよい土地を求めて、1889年までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。夏はスイスの村アルプス山中で、冬は北イタリアや、フランスのニースといった都市で過ごした。

時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。

また、マイゼンブークも、ニーチェに対して、母性的なパトロンであり続けるなど、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そして、このころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。

1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作を出版することになる。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には、『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版した。

ルー・ザロメとの交友

ニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識』の第1部を発表した。『力への意志』として知られる著作の構想が芽生えたのもこの時期と言われる。またこの年の春、ルー・ザロメと知り合った。

ニーチェはザロメやレーとともに夏を過ごした。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。

失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる

ショーペンハウアーとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。

ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。

1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。

1886年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者と結婚した。書簡の往来を通じて兄妹の関係揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。

病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。

また、イポリット・テーヌやゲーオア・ブランデスとも文通を始めている。ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1888年にはコペンハーゲン大学でニーチェに関する講義を行い、ニーチェの名を広めるたと言われています。

ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになった。

ニーチェは、44歳の誕生日に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない頃であった。

狂気と死

1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。

数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナーやブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では

『「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」』
と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、

『「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」』
というものであった。

友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母はイェーナの病院で精神科医に診てもらうことに決めた。

1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーンが治療に当たった。ニーチェの母は1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。

エリーザベトと『力への意志』

1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女は兄の著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を揮うようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。

1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、訪ねてくる人々に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。ガストは弔辞でこう述べている。


―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」


エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリーザベトの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった。

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