世界の国歌 ドイツ連邦共和国『ドイツの歌』(Das Lied der Deutschen)

国歌
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世界の国歌について紹介します。

今回は、ドイツ連邦共和国の国歌『ドイツの歌』を紹介します。

歌詞

Einigkeit und Recht und Freiheit
Für das deutsche Vaterland!
Danach lasst uns alle streben
Brüderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit
Sind des Glückes Unterpfand.
Blüh’ im Glanze dieses Glückes,
Blühe, deutsches Vaterland!

歌詞の意味

統一と正義と自由を

祖国ドイツに!

友よ求めて進まん

心合わせて手を結び!

統一と正義と自由は

幸せの証

この幸せの輝きの中

栄えあれ、祖国ドイツ!

成り立ち

ドイツの国歌は、フランツ・ヨゼフ・ハイドンが1797年に作曲しました。
オーストリア帝国の皇帝に捧げた『皇帝讃歌』の旋律に、詩人のアウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンが書いた『ドイツ人の歌』という詩をのせ、1922年にワイマール共和国の国歌として制定されました。

この曲は第二次世界大戦まで国歌として用いられていましたが、ナチス・ドイツが国威発揚に利用したことや、1節の歌詞に登場する地名(マース川、メーメル川、エッチュ川、ベルト海峡)が戦後はドイツ領ではなくなったため、「ドイツ人の歌」は禁止となり、連合軍はこの歌を処罰の対象としました。
「Ich hab’ mich ergeben(我はこの身を故国に捧げり)」や、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番の『歓喜の歌』が代用されましたが、ドイツ国民は『ドイツ人の歌』を非常に気に入っていました。
1951年秋の世論調査では、西ドイツ国民の3/4が「ドイツの歌」を再び国歌とすることに賛同しました。また約1/3の国民が将来第一節の代わりに第三節を歌うことに賛成しました。

コンラート・アデナウアー連邦首相は、4月に議会で昔の国歌をあからさまに歌い出し、大きな政治問題を引き起こしました。
このとき既にアデナウアーはこの問題の難しさを痛感していました。
議員の大半が感動して共に第三節を歌った時ですら、同席していた連合軍幹部たちは驚きと不快感を露にしました。
他国の人々にとってこの曲は、ナチの狂信的人種差別と世界制覇の欲望をあまりにも強烈に表す代名詞だったのです。

それでもアデナウアーは1951年初め、75歳の誕生日の式典において、ボン市庁舎の外階段に居並ぶ人々に、一緒に「ドイツの歌」第三節を歌うように促しました。
最初、楽団は予定になかったこのかつての国歌の演奏を拒みました。しかし首相は最後にはその意志を通しました。


こうして1951年10月、キリスト教民主同盟カールスルーエ支部はホイス連邦大統領に対し「ドイツの歌」の禁止処分を解くよう、全会一致で要請しました。
第三節だけでも、ドイツの伝統を汲み国歌としての扱いを受けるべきであると要請したのです。
そのしばらく後に、連邦政府の公報においても、アデナウアーは、この歌ほどドイツ国民の心に深く根ざしているものは他にないと説いたのです。


こうして国家行事においては、『ドイツ人の歌』の第三節が再び歌われることとなりました。

しかし、これにより国歌に昇格されたのが、この曲の第三節だけだったのか、それともこの曲全体であったのかに関して、法律家たちがその後38年にわたり論争を繰り広げたにも係わらず、結論が出ませんでした。
1990年3月にようやく、連邦憲法裁判所は、第三節のみが「刑法によって保護される」と判断しました。
しかしながら、ドイツ連邦共和国の国歌に関する正規の法律は未だに策定されていません。

参考

・世界の国歌・国旗 単行本 – 2020/3/27 弓狩 匡純 (著)

ドイツ連邦共和国大使館 総領事館 ドイツ連邦共和国国歌

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