台湾の近代史 台湾民主国の独立と崩壊

歴史
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近代の台湾に存在した台湾民主国について解説します。

台湾民主国の成立

台湾民主国の成立には、当時の歴史が深く関係しています。

1894年~1895年の日清戦争に勝利した日本は、清と下関条約を結びました。

条約の内容は、主に以下の3つでした。

  • 清は二億両(テール)の賠償金を支払う
  • 清は朝鮮の独立を承認する
  • 清は遼東半島・台湾を日本に割譲する

※二億両は現在の日本円にしておよそ12兆円に相当する。

台湾に住む人々にとって重大な話でしたが、台湾の人々に知らされたのは、条約調印の三日後のことでした。

台湾では、多くの人々が反対の声を上げましたが、清政府からの通告には「台湾よりも首都が大事だ。台湾は孤島にすぎない」と書かれていました。

そこで、台湾の人々は、前巡撫(省の長官)だった唐景崧を総統に、台湾民主国を樹立しました。

台湾民主国の独立宣言

1895年5月23日に発表された独立宣言には、「衙門(役所)日寇(日本)は横暴にして、わが台湾の併呑を欲している。わが台湾同胞は倭(日本)に屈せず、戦って死を選ぶことを誓う」と謳われていました。

年号や布告も定められ、唐景崧の布告の中には、「議院を開設し、議員を選ぶ」と議会政治についても触れられていました。

しかし、同時に「歴代皇后陛下の旧恩を念頭に刻み、謹んで服従する」と清への服従も言っています。

台湾民主国は計画的に作られたものではなく、台湾が日本に割譲されることを知った台湾の人々が急いで立ち上げたものでした。

唐景崧は、陰では既に公金を上海に送って逃げる準備をしており、日本軍の上陸後。厦門に逃亡してしまいました。

そして、清政府も役人たちに帰国命令を出していました。

日本軍との戦争

1895年5月24日、軍司令官の樺山資紀海軍大将は、広島の宇品港から出発し、近衛師団と合流しながら、29日に台湾に上陸しました。

清の正規軍や義勇兵を合わせて5万人と言われていましたが、大した戦闘もなく基隆を占領しました。

その後、台北、淡水を占領し、樺山は元台湾巡撫衙門(役所)で始政式を行って、前台湾の占領を目指しました。

澎湖島は下関で講和会議が開かれている最中の3月24日に占領しています。

こうしてほとんど抵抗もなく、日本軍は北部を制圧しました。

このままいけば台湾全土の占領も時間の問題かと思われましたが、この頃から抵抗が強くなり、日本軍は苦戦を強いられました。

住民によるゲリラ戦が各地で展開され、北部の平鎮の占領に対応している間に、それに呼応して台北でも反乱がおき、日本軍の兵力不足が明らかになりました。

7月に大本営は増援を決定し、伊藤内閣も、台湾の情勢が「至難の境遇」にあるため「鎮定までの間は法規にのっとらなくても良い」とする通達を出しました。

台北で住民と戦った宮城県出身のある兵士は、父親に次のような手紙を送っています。

この土地の土民(当時の住民の呼び方)たちはわが隊を茶でもてなすなど歓迎すると見せかけ、そのあたりを捜索していると、一斉に攻撃を仕掛けてきた。男子はもちろん女子も小銃を放ち、子供まで竹槍で退路を断とうとした。そこで、後日別の隊が彼らを多数殺害した。

台湾中南部でも、老若男女が義勇兵として郷土防衛のために抵抗したと言われます。

特に南部では、日清戦争中に台湾防衛を命じられていた劉永福が率いる黒旗軍が主力となって、日本軍と戦いました。

※劉永福・・・フランスのインドシナ出兵(フランス=ベトナム戦争、1858~1862年)や清仏戦争(1884年~1885年)で活躍した客家出身の人物。

唐景崧らが逃亡すると、劉永福は台南で台湾民主国のリーダーとなり、台南議会を設置し、紙幣を発行しました。

激しい抵抗が起きたのは、台湾中南部の住民が、既に台湾を自分たちの土地と考え、台湾で生きる決意が固かったからでした。

これまでの移民意識が薄れ、械闘(出身の異なる者同士の武力衝突)を繰り返してきた客家人、福建人、広東人の間に連帯感が生まれ、台湾人としての意識が生まれていたのです。

台東では、先住民も西武からの移民と共にゲリラ戦を展開しました。

日本軍も多大な被害を出しましたが、10月19日、日本軍の度重なる攻撃で劉永福も台湾を脱出し、台湾民主国は崩壊しました。

台湾民主国は5月23日に建国され10月19日に崩壊したので、わずか148日間しか存続できませんでした。

日本軍に協力した人々

ここまで台湾に住む人々が日本軍に対して激しい抵抗を行ってきたことを紹介してきましたが、近年の台湾史研究の発展によって、全島民が一致団結して抵抗していたわけではないことが明らかになっている。

台湾占領当初、進んで日本に協力した人もいれば、さらに「日本の明治の君を御主人とします」という旗を掲げて出迎えた人たちもいた。

1895年6月3日、基隆を攻略した日本軍が進軍すると、6日に、辜顕栄(こけんえい)という無名の人物が日本軍と交渉し、台北の市民は皆、日本軍の到来を待ち望んでいると伝え、自ら案内役を買って出た。

続いて李春生などの紳商(一流の商人)と外国人居住者の委託を受けた外国人たちもやってきて、日本軍の入城を歓迎したのである。

こうして6月7日には近衛師団が台北の城門に至り、戦わずして台北市内に進駐した。

6月17日、樺山資紀がもとの巡撫衙門の前の広場で「始政式」を行い、ここに台湾は正式に「天子(店名を受けた支配者)が代わった」こととなった。

この後、半世紀にわたって(日本統治時代)、6月17日は最も重要な祝日「始政記念日」となり、毎年,

荘重盛大な祝賀行事が行われることとなった。

その後、中南部では激しい抵抗に遭いながらも増援によって南方へと進軍し、10月19日には南部抗日のリーダーであった劉永福の率いた部隊は軍服を脱ぎ捨てて変装し、台湾を脱出して翌日には厦門に到着しました。

10月20日、英国の宣教師バークレイと宋忠堅が、台南の紳商の委託を受けて日本軍を出迎え、日本軍は翌日平和裏に台南市内に入城し、台湾全島の占領が完成した。

日本軍を案内して無血入城させたことについて、以前から人民を更なる塗炭の苦しみから免れさせたという言い方がありました。

結果論としては正しいかもしれませんが、無血入城を推進した人たちが、後に日本側から膨大な贈り物を受け、長い間密接な協力関係を続けていたことから見れば、少なくとも慈悲という宗教的動機からではなかったと言えるだろう。

日本軍を台北城に引き入れた辜顕栄は、一躍台湾の名家の仲間入りを果たし、その一生を栄華のうちに終え、現在その遺産は難題も後の子孫にまで及んでいる。

辜一族は現在でも台湾の有数の名家に数えられていることは、歴史を知る者からすると皮肉なことである。

※辜顕栄は、御用紳士(植民地支配の協力者)という評価が一般的である。

戦争による被害

日本軍は、台湾民衆の武装闘争だけでなく、赤痢や風土病であるマラリアにも悩まされました。

当時の日本の記録には「八月中旬になると各隊の半分以上が病人となっている」とあります。

日本は台湾を占領するために約7万6000人の兵力を投入し、死者5300人を超える被害を出しました。死者の87%は戦病死者でした。

一方、台湾住民の被害は1万4000人以上と推定されます。

日本統治時代の台湾について知りたい方はこちら

参考

・これならわかる台湾の歴史Q&A 単行本 – 2012/5/1
三橋 広夫 (著)

・増補版 図説 台湾の歴史 単行本 – 2013/2/18
周 婉窈 (著), 濱島 敦俊 (監修, 翻訳), 石川 豪 (翻訳), 中西美貴 (翻訳), 中村 平 (翻訳)

世界史の窓 台湾民主国

世界史の窓 劉永福

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