台湾の現代史2 憲法修正以降

歴史
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憲法修正以降の現代の台湾について解説します。

国民党統治時代の台湾について知りたい方はこちら

間接選挙時期

国民党統治時代に中華民国という国家の統治が台湾規模となると、それを法理的に確定しようとする動きが出てきた。

これが1991年に始まる憲法修正以降の時代である。

中華民国は1990年になっても、中国規模の統治を前提とする中華民国憲法に基づいて、中華民国総統と、「万年議員」(1946年の憲法制定時における国民大会の代表者で非改選の議員)のみで選出されていた。

中華民国総統は、そもそも中国規模の民意を根拠にしているのであって、台湾規模の民意を代表していないという主張が、問題になっていた。

そこで、蔣経国が1987年に戒厳令を解除して翌年に死去すると、総統となった李登輝は、中国統治の分断という発想を導入し、あくまでも中華民国による台湾統治を基礎づけ直そうとした。

李登輝は1990年に野百合学生運動などの国政改革を求める機運を受け、国是会議を開いて憲政改革を始めた。

1991年には国共内戦の終了を一方的に宣言し、動員戡乱時期を終結させた。これ以降、台湾は中華民国として民主化を大きく展開していることを内外にアピールできた。

主権の範囲に関する議論を巧みに棚上げした上で、李登輝は内外に向かい、台湾海峡の両岸で台北と北京にある二つの政治実体が約40年間にわたり、それぞれの地域を統治してきた現実を受け入れるべきだと訴えた。

台湾を中華民国の自由地区として位置づけ、中華民国が台湾の現状に特化した統治を展開できるように、憲法の修正を試みた。

憲法修正には本文そのものを変更するのではなく、「増修条文」(追加修正条項)を本文の末尾に付すという方法が採用された。

憲法修正は7回に及び、総統選出が国民大会代表による間接選挙(任期6年)から、「中華民国自由地区全体国民」による直接選挙(任期4年)へと転換となり、1996年には直接選挙により李登輝が選出された。

総統を選出する有権者は、「中華民国自由地区」(台湾、澎湖諸島、金門、馬祖)に法理的に限定された。

よって、中華民国の台湾化(本土化)が実現した。

「本土化」とは「台湾それ自体になる」、「台湾自身のものになる」という意味であり、「中国本土に近づく」という意味ではない。

直接選挙時期

中華民国政府は中国史上初の直接選挙による国家元首の誕生だと誇り、民主主義の存在を内外にアピールした。

台湾史としては、オランダ時代以降、外来政権による統治が続いていた台湾にとって、じゅうみんによる自律の追求がようやく達成できたと理解された。

かつて日本統治時代の請願運動で芽生えながらも挫折した「台湾は台湾人の台湾である」という意識が達成されたのだ。

直接選挙時期には、台湾化とともに、多元化の動きが顕著になる。

国共内戦の終了により中国大陸の奪還という全国民共通の目標が喪失し、人生の目標は人それぞれだという考えが広まった。

更に、多様な「群族」が構成し、多元的な社会や文化を創り出した台湾という土地の歴史へ関心が高まっていく。

住民は自身が台湾人なのか、中国人なのか、台湾人であり中国人なのか、自らのアイデンティティを再検討し始めた。

台湾の歴史や住民の帰属意識について、遠慮なく議論できるようになったのは李登輝が総統になって以降であり、誰もが関心を持つようになったのは直接選挙時期であった。

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