今回は、台湾の現代史として、20世紀後半の国民党統治時代について解説します。
戦後内戦期(1945~1949)
日本が連合国に降伏し、1945年8月15日に敗戦となった後、10月25日には台北公会堂(現在の中山堂)で連合国により中国戦区台湾地区降伏式が行われた。
中華民国にとって、この式典は台湾が祖国である中国へ復帰したことを表し、今なおこの日を台湾光復節と呼んでいる。
台湾の住民のうち、日本内地から移り住んでいた人々(約50万人)は内地への帰還を余儀なくされ、残る大部分の人々(約600万人)が中国台湾省の人々となった。
本省と外省という省籍に基づいて、本省人と外省人という区別が台湾で広がっていった。
本省人と外省人は今や同じ国民であっても、数年前までは日本人と中国人だったのであり、交戦状態にあった。
台湾人は日本の敗戦により敗戦国民であったはずが、中国が台湾を接収したために戦勝国民となった。
接収のために来台した中国人は真の戦勝国民を自任し、台湾人に対して驕り、貪官汚吏(役人の汚職や腐敗)も多かった。
故に本省人と外省人の対立は次第に大きくなり、1947年2月28日に武力衝突が起こった。
後に二二八事件と呼ばれるこの事件は、外省人による本省人への弾圧の象徴として、特に本省人のアイデンティティ形成の契機となり今なお記憶されている。
1947年に中国で本格化した国共内戦は、1949年に毛沢東の率いる中国共産党が中国大陸を支配して勝利し、北京に中華人民共和国を打ち建てた。
これに対して、蒋介石の率いる中国国民党は敗北し、中国大陸から中華民国を引き連れて台湾へ撤退し、台北が臨時首都となった。
約100数十万の人々が台湾へ逃げてきたとされる。
蒋介石時期(1949~1978)
蔣介石時期において、台湾は中国大陸奪還のための最後の拠点に位置付けられていた。
台湾に住む人々は、自由中国(共産党の勢力外という意味)の国民として、復興基地である台湾で中華文化の守護者を自任し、中華世界の最先端を駆けることになった。
中華民国憲法は1946年に制定、翌年に公布、施行されたが、国共内戦のため、第一代総統就任の1948年5月20日と同日に、憲法に「動員戡乱時期臨時条款」(国民総動員で中国共産党の反乱を鎮圧するための時期)が始まっていた。
これにより、法的手続きを簡素化し、総統の権限を憲法に優先させることができた。
更に、中華民国は1948年10月に中国大陸に、1949年5月19日に台湾に戒厳令を布いたことで、総統の権限がより一層強化された。
1950年から1960年代には、「共産党のスパイ」を駆逐することを目的として、国民党に反抗する者や、共産主義に通じるとされる者を不当に逮捕し、処刑した。
現在でも正確な人数は不明であるが、約14万人が逮捕され、約4000人が処刑されたとの推計もある。
このような国家権力による住民の弾圧白色テロと呼ばれ、日本統治時代を経験した人々は、「犬が去って豚が来た」と嘆き、蒋介石・蔣経国の親子による強権政治を恨んだという。
「犬(日本人)は獰猛で吠えるので騒がしいがルールに忠実で番犬としては役に立つが、豚(中国人)はルール無用で貪り尽くすだけ」というような意味で、決して日本統治時代を称賛しているわけではなく、「悪いところもあったが、良いところもあった。」という程度であることを忘れてはならない。
中華民国は中華人民共和国を仮想敵に位置づけ、台湾に拠って唯一合法の中国政府を自任し、サンフランシスコ講和条約(1951年)の延長として日華平和条約(1952年)や米華相互防衛条約(1954年)を締結している。
1966年から1976年までに中華文化復興運動が行われた。
1971年に国連を脱退し、1973年に日華断交、1973年から十代建設なども、中国政府としての振る舞いであり、台湾政府としてではなかった。
蔣経国時期(1979~1991)
1979年に米華断交があり、台湾規模での台湾統治を国際政治において成立させてきた米国という法理的根拠が、米華相互防衛条約という台湾関係法(米国国内法)に変わった。
1979年を境にして米国は、自国の利益に基づき台湾規模の領域に影響力を与えるようになった。
これは、中華民国の統治が将来的には全中国にまで及ぶべきだという中華民国側の従来からの主張を、国際社会が許容しないことを示していた。
1979年以降、国際社会においては台湾規模での台湾統治だけが黙許されている。
しかし、中華民国憲法は中国規模での統治を設定しているため、台湾規模での台湾統治を実施するための設定を持たなかった。
1971年から1991年までは台湾統治を巡り、国際社会の提供する台湾規模の正当性と、中華民国の提供する中国規模の正当性とにはズレが生じていた。
このズレた時期こそが蔣経国時期であり、戒厳令下での弾圧(白色テロ)が続く中で、国際的な孤立を深めていった。
中国国民党のよる約50年間の権威主義的統治を経て、中華民国という国の実態はその規模が中国から台湾へと縮小していた。
そのため、台湾は中華民国の一部から、事実上は中華民国そのものになったと言えるだろう。
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