日本が台湾を統治していた時代について解説します。
概要
日本が台湾を統治していたのは1885年から1945年までの50年間である。
この期間は、前期武官総督時期、文官総督時期、後期武官総督時期の3つに分けられる。
前期武官総督時期
1894年の日清戦争に日本は勝利し、1895年の下関条約で清朝は台湾と澎湖諸島を日本へ割譲した。
清朝の統治下でひとまとまりになった台湾は、日本の一部となった。
清朝でも日本でも、支配者が台湾という地域を行政上はひとまとまりで扱っていたのに対して、同じように台湾に住む住民が最初から、自分たちは台湾規模で一つにまとまっているのだと意識していたわけではない。
日本は台湾を統治するにあたり、科学技術を搭載した軍備でもって、現地の反抗勢力を制圧した。
台湾の住民の反抗手段が武力だったため、前期武官総督時期(1895年~1919年。)は初代総督から第7代総督まで全て軍人だった。
台湾の漢人は華夷秩序に基づき、野蛮な東夷が攻め込んでくると理解し、自分たちを見捨てた清朝を頼るわけにもいかず、そこで台湾民主国を創建し武力で日本に対抗した。
台湾民主国は半年で滅亡したが、土着の官民が台湾の主権者を初めて自任した行動であった。
台湾民主国滅亡後も土着住民による大小の抗日武装抵抗が続き、タバニー事件(西来庵事件,1915年)の解決で日本の掃討活動もとりあえず終了した。
日本は台湾総督府を通じて近代的な統治(インフラや法律の整備)を実施する際、法理的には台湾を日本の内地と区別していた。
台湾では特別法治主義が採用され、大日本帝国憲法を直接適用せず、総督の権限を大いに認める六三法(1986年)や三一法(1906年)が適用された。
文官総督時期
台湾の治安が安定してくると、台湾の住民の中に植民地住民としての不合理を解消するために、従来のように武力を用いるのではなく、言葉を使おうとする人々が登場する。
文官総督時期(1919年~1936年。第八代から第十六代までの全ての総督が文民)は日本史でいえば大正デモクラシーの時代であり、日本の外地である台湾からも優秀な青年が帝都東京で学び、国民主権や民族自決という考え方を知った。
彼らは文明と野蛮という区別がもはや華と夷ではなく、近代と前近代であることを知り、台湾へ戻る。
日本経由で近代を知った台湾の知識人たちは台湾文化協会に集い、「台湾は台湾人の台湾である」という意識を育み、台湾議会設置請願運動を展開する。
特に請願運動は全部で15回(1921年~1934年)に及び、大日本帝国憲法で保障されている請願権を使って、植民地自治を獲得しようとする内容であったが、請願は日本の国会で認められることはなかった。
1922年には法三号が適用され、理念の上では、従来の特別法治主義が内地延長主義に改まった。
実際は、大日本帝国憲法を始めとする諸法は台湾で適用されることはなかったが、外地である台湾にも大日本帝国憲法を適用した方が良かろうという機運が高まるほど、総じて台湾の社会が安定していた。
1923年には皇太子が台湾を安全に訪問し、1928年には7番目の帝国大学として台北帝国大学(現在の国立台湾大学の前身)が創建された。
1920年代には日本の台湾統治が成功しているように考えられていただけに、1930年になって霧社で勃発した原住民による抗日武装蜂起は、日本政府や台湾総督府に衝撃を与えた。
後期武官総督時期
1931年に満州事変があり、1933年に日本は国際連盟を脱退する。1936年からは台湾を南進基地化すべく、住民の皇民化や産業の工業化が始まり、これ以降の日本の敗戦までが後期武官総督時期(1936年~1945年。第十七代~第十九代までの総督がすべて軍人)である。
皇民化政策は文官総督時期の同化政策を強化したものであり、国語運動、改姓名、宗教や社会風俗の改革、志願兵制度の四つが主な内容である。
志願兵制度に関しては、戦後に日本国籍を喪失したという理由で日本政府は保証を十分に行っていないため、現在の日台関係に問題を残している。
1942年に志願兵制度、1945年に徴兵制が布かれると、台湾人(の一部)は日本の正規の軍人となった。
終戦までに軍人8万人と軍属・軍夫13万人の合計21万人(このうち戦死者は3万人)が参戦した。
台湾は、日本という近代国家の一部として、台湾人日本兵を始めとして「六百十七万全島民」は総力戦を経験したのだ。
日本統治時代のもたらした影響
1990年代に台湾史研究が台湾で盛んになると、中学校の国定教科書『認識台湾』(1997年、邦題『台湾を知る』)では、日本の統治が台湾にもたらした近代というものに、時間厳守、法遵守、衛生、国語の四つの観念を挙げている。
これらは、清代には存在しなった観念だと言われている。
台湾における近代は、清朝の洋務運動と日本の台湾総督府の施政のいずれから始まるのかという議論はあるが、1890年代辺りから、台湾社会が大きく変動したことは間違いない。
台湾に住む住民は、科学技術という近代に圧倒され、続いて国民主権論という近代を使い、総力戦という近代に人生を賭けた。
台湾住民は近代という時代をこのように経験する中で、自分たちが台湾規模で一つにまとまっていると自覚し、意識するようになったのだ。
更に、日本の敗戦により台湾がひとまとまりで日本に放棄されることによって、「台湾」の意識は強まった。
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