今回は、台湾の近代史(日本統治時代以前)について解説します。
オランダ時代
欧米では台湾をFormosa(フォルモサ)と呼び、これに「美麗島」と充てた漢字表記が20世紀後半に頻繁に使われ、台湾の美称や自称となっている。
これは、大航海時代の1544年にポルトガル人が海から台湾を見て、”Iha Formosa”(麗しの島)と呼んだことに由来する。
その後、オランダは1602年にオランダ東インド会社を発足させ、1624年に台湾の西海岸の南にゼーランディア城を建造した。
同時期に、スペインが1626年に台湾の西海岸の北にサン・サルバドル城や、サン・ドミンゴ城を建造した。
そして、1642年にオランダはスペインを駆逐し、台湾を植民地として統治する。
オランダは、オランダ東インド会社を通じて、統治機構を台湾に持ち込んだ。
オランダは台湾にとって最初の外来政権となったのである。また、東インド会社が原住民のシラヤ人へキリスト教伝道を推奨したため、シラヤ語のローマ字による聖書が出来上がった。
明鄭時代
明鄭時代とは学術用語であり、17世紀後半ごろを指す。
鄭氏とは、日本では人形浄瑠璃『国姓爺合戦』の主人公国姓爺として有名な鄭成功を中心とする一族のことである。
鄭成功の父は鄭芝龍、母は日本人の田川マツであった。
オランダが台湾を植民地経営している時、中国では王朝交代が起こっていた。1644年に明朝が都(北京)を追われ、清朝が中華世界に君臨すると、明朝は江南に拠点を作って抵抗を続けた。
鄭芝龍・鄭成功親子は、「反清復明」のスローガンのもと、台湾へ渡った。
鄭成功は1662年にゼーランディア城を拠点とするオランダを駆逐し、プロビンシャ城と改称して台湾統治の拠点とした。
鄭氏政権の時代には、台湾を開墾するために、多数の漢人移民が台湾に移入し、原住民の全人口を上回るほどになった。
清代
1683年、清の康熙帝は、台湾の鄭氏一族の内紛に乗じて遠征軍を送り、制圧した。翌年には台湾を清の版図に組み入れ、台湾府を置き福建省に隷属させた。
清朝は台湾統治に積極的ではなかったものの、清朝を支える官僚として科挙の及第者を輩出していたため、台湾はあくまでも中国の地方の一つであった。
清朝は台湾が再び反清運動の拠点になることを嫌い、漢人が台湾へ行くのを禁止したが、漢人の移民は増える一方であった。
主に福建と広東からの移民が多かった。現代の台湾人のうち、本省人で台湾語(福佬語)と客家語を使う人々の祖先がこの頃に中国大陸から台湾へそれぞれやって来た。
こうした移民は言語や出身地ごとに住み分けており、時には集団間で武力衝突することもあった。
漢人の大量移入により、平地の原住民は漢化され、原住民の文化や習慣は山間部へと追いやられた。
「文」を中華なるものの本質だと考える中国人から見れば、台湾の山地や東部は「文に化していないところ」という意味で「化外の地」だった。
清朝は原住民を、文化(漢化)の程度の強い順に熟番、化番、生番と呼んだ。
漢人移民の多くは単身男性であったため、移住先の台湾で彼らは平地に住む原住民の女性と娶り、通婚が進んだ。
その後、清朝がアヘン戦争に敗北すると、台湾の港は次々と開港されていった。
1874年の日本の台湾出兵や1884年の清仏戦争をきっかけに、1885年に台湾は福建省から独立して台湾省となり、初代巡撫(省の最高責任者)であった劉銘伝が近代化を推進した。
これは当時の清朝が展開していた洋務運動の一環であり、洋務運動は中体西用などにより中国本土では大した成果が上がらなかったものの、台湾でのみ成功したと評価されることもある。
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