今回は、「原子論」で有名な古代ギリシアの哲学者デモクリトスの名言・格言を紹介します。
名言・格言集
真実について
- 人間が真実から切り離されていることを、人はこの尺度(基準)によって はっきりと知らなければならぬ。
- 真実には如何なるものについても私たちは知っていない。むしろ、私たちのそれぞれにとって流れ込んでくるもの、すなわち思惑あるのみ、ということをこの議論もまた明らかにしている。
- それでもなお 次のことは明らかになるであろう。
- 私たちは真実には 確実なものを知るのではなく、身体の状態と、身体へと入り込み 身体に突き当たるものの状態に応じて変化するのを、知るにすぎないのだ。
- 今 各々のものがどのようなものであり、どのようなものでないかを 私たちは真実には知らないことが、これまで様々な仕方で明らかにされてきた。
- 真実には私たちは何も知らない。それというのも、真理は深淵のうちにあるからだ。
- 真実を語るべきなのであって、長話をする必要はないのだ。
快と不快について
- 快活な心のあり方を願う者は、私的にであれ公的にであれ、多くのことをやりすぎてはならない。また、その者は何をなすにせよ、自分の能力や素質以上に望んではいけないのだ。むしろ、幸運が偶然に訪れて、より多くのものを指し示してくれる時でも、なお、彼は、自分の判断によって それを相手とせず、能力以上のことに手出ししてはならない。なぜなら適正な大きさは、大きすぎるよりも一層安全だからだ。
- 快と不快こそ有益なものと無益なものを分ける境界線である。
- 時期を得ぬ快楽は、不快をもたらす。
- 善と真は、万人にとって同じだが、快は人それぞれに異なっている。
- いかなる快楽をも受け入れてはならない、それが有益なものでないならば。
- 節制は楽しみを増やし、快楽を一層大きなものとする。
- 敵に勝つ人だけでなく、快楽に克つ人もまた勇気があるのだ。ある人たちは、一方で国の支配者となり、他方で女たちの奴隷となっている。
- 為になるものとならないものの境界線は、快と不快である。
- 快楽の中では、一番希にしか生じないものが、一番大きな喜びを与える。
- 度を越せば、この上なく愉快なこともこの上なく不快なことになりうるのだ。
- 胃袋に快楽を求める人々、それも食べること、飲むこと、性愛行為に度を越えてふける人々の誰にとっても、快楽は短く、彼らが食べたり飲んだりしている間限りのわずかな時間しか続かないのに、他方で苦痛は多いことになる。というのも、この欲求は、常に同一のものを求める欲求であり、一度望みのものを手に入れたら、快楽はすぐさま過ぎ去ってしまうからだ。そして彼らには束の間の喜びの他には、善いものは全く存在せず、再び同一のものを求めることになるのだ。
幸福と不幸について
- 人々が幸福であるのは、身体によるものでも財産によるものでもない。むしろ、心の正しさと思慮深さによるのだ。
- 愚かな者たちは、不幸を体験してはじめて思慮深くなる。
- 不正を加えるものは、不正を加えられるものよりも、一層不幸である。
- 人間たるもの、人の不幸を笑うことなく、悲しむのがふさわしい。
- 幸福も不幸も魂に属すること。
- 私たちにとって善福となるその同じものから、禍悪をもまた私たちは収穫することが出来るし、また禍悪を避けることもできるのだ。例えば、深い水は色々な点で有益だが、また他方で、禍でもある。つまり溺れる危険があるからだ。従ってある技術、すなわち水泳教授の技術が発明されてきたのである。
- 肉戦は双方にとって禍である。勝利者にとっても敗北者にとっても破滅であることに変わりはないのだ。
- 適度な財産で心楽しむ人は幸福だが、莫大な財産で心楽しむ人は不幸である。
神と神話について
- 神的な素質を持つホメロスは、多種多様な言葉の秩序ある構成(コスモス)を築き上げた。
- 人間どもは、自分の無思慮の言い訳のために、偶然女神(テュケ)の像を拵えた。なぜなら、偶然が思慮と相争うことは滅多にないことであり、人生におけるほとんどのものを正しく秩序付けるのは、分別ある炯眼だからである。
- 神々は人間どもに、昔も今も、あらゆる善きものを授け給う。だが、悪しきもの、害あるもの、無益なものは一切、これを神々は人間どもに、昔も今も、与え給うことはないのだ。むしろ人間どもの方が、知性の盲目と無思慮から、その種のものに自ら近づくのである。
- 人々は神々に健康を祈願するが、しかし自分自身のうちに健康への力が備わっていることを知らないのだ。そして、自制心を持たぬために、全く逆のことをしでかし、浴場のために、健康の裏切り者となっているのである。
善と悪について
- 人は善き人か、善き人を見習うか、そのいずれかでなければならない。
- もし人が私のここに述べた見解に思慮深く耳を傾けるなら、その者は善き人にふさわしい多くのことどもを成し遂げ、多くの悪しきことどもをなすことはないであろう。
- 善とは、不正をしないことではなく、それを欲しさえしないものである。
- 厄介なのは、悪い人を真似るばかりで、善い人の真似はしようともしないことである。
- 善き事どもは、それを求める人々のもとに なかなか訪れないが、禍悪はそれを求めない人々のもとにもやって来る。
- 悪人が好機を掴むことがないよう、警戒しなければならない。
- 身内の者どもの憎悪は、他人のそれよりも はるかに厄介である。
- 財貨を儲けることは決して無益なことではない、だが不正によって儲けることは何よりも悪いことなのだ。
- もし人が善に導き、善を上手に進行させる知識を持っていない場合には、人々にとって、悪が善から芽生えてくる。しかし、そのような事態を悪のうちに数え入れるのが正しい。人は望めば、善を悪に対する防御としても用いることもできるのだ。
- どんな立派な言葉も卑しい行為を覆い隠すことはできず、また善き行為は、言葉による中傷によって傷つけられることはない。
- 悪い人と始終交際することは、悪徳への性向を強めることになる。
- 自分自身の悪いところを忘れることは、厚顔無恥を生む。
- 褒めるべきでないものを褒めたり、咎めるべきでないものを咎めることは容易だが、これはいずれも悪しき正確に属するものなのだ。
- 多くの人たちは、素質によってよりも練習によって善きものとなる。
- 賢い人については、大地は全て通行可能なのだ。それというのも、この全世界が善き魂の故郷に他ならぬからである。
- 裕福な人たちが、持たざる者のために、思い切って貸与したり、援助したり、善行を施そうとする場合、既にそこには、憐憫の情や仲間を孤立させないという気持ちや友情や相互扶助や市民間の和合や、その他誰もいちいち数え挙げることができぬほどの善き事どもがあるのだ。
- 老人はかつては若かった。だが青年はこの先老年に至りつけるかどうかは明確ではないのだ。だから、完成された善は、これから先の、しかも明確ならざる善よりも優れたものである。
知性と理法(ロゴス)について
- 医師は身体の病を癒し、知恵は魂を諸々の煩悩から解放する。
- 自分を知者だと思い込んでいる人に忠告しても無益なことだ。
- 多くの人々は、理法(ロゴス)の何たるかを学んだことはなくても、理法に従って生きている。
- 博識家は大勢いるが、彼らは知性をもたない。
- 博識にではなく、深い知性に達すべく修練を積まなけらばならない。後で後悔するよりは、行為に先立って熟慮する方が一層いい。
- 知性が備わっていなければ、身体の美は動物的なものにすぎない。
- 一人の知性ある人の友情は、知性なき全ての人々のそれに優る。
- 知性を伴わない富と名声は、確固不動の財産ではないのだ。
- 知性なき人々の希望は、無意味なものだ。
教育、教養について
- 素質と教育は似ている。なぜなら教育は人間を再形成し、再形成することによって素質を作り出すからだ。
- 教養は順境にある人々にとっては、飾りであるが、逆境にある人々にとっては、避難所である。
- 教養ある人たちの見込み(希望)は、無学な人たちの富よりも一層有力である。
友人について
- 友人らしく見える多くの人々は、実のところそうではなく、そうは見えない人々が友人である。
- 試練に耐えた真実の友人が長年にわたって そばに居ないような人物は、片意地な御しにくい性格の人である。
- 多くの人々は、友人たちが裕福な身分から貧乏へと零落すると、その友人たちを避けるようになる。
- 親類縁者だからといって全てが友人であるわけではない、ただ有益なものについて意見を同じうする者のみが有益なのだ。
- 一人の善き友持たない者にとって、生きることは無価値だ。
- 順境にあって友を見つけることは容易だが、逆境にあっては これほど困難なことは他にない。
- 難癖を付けたがる人は、友情を結ぶのには生来向いてない。
人間の特性について
- 多くの人々は、この上なく破廉恥なことをやってのけながら、この上なく上手い弁舌の修練に精を出す。
- 美しい事柄を知り、競って求めるのは、ただ美しい事柄に向くように よく生まれついている人々だけなのだ。
- 牛馬の優秀性は頑丈さにあり、他方、人間の優秀性は見事に育て上げられた気質にある。
- 私たち人間は、最も重要な事柄について動物たちの生徒なのだ。織る技術や修繕術の点では蜘蛛の、建築については燕の、物真似によって歌をうたう点では声美しいものども、すなわち白鳥や夜鶯の生徒なのだ。
- 身体よりも魂を重視することは、人間にふさわしいことだ。というのも、魂が完全であれば、そのことが身体の悪いところを治すけれども、しかし身体の強さは、知性を欠いては、魂をいくらかでも善いものにするというわけにはいかないからだ。
- 人間にとって最善の生き方は、出来る限り快活でいて、出来る限り不機嫌でいないことだ。もし人が快楽を死すべき事物のうちに求めることをしないなら、このことは可能だろう。
人生(の教訓)について
- (罪に対する)恐怖の念からではなく、義務の思いから、人は罪を犯すことを避けるべきだ。
- 不正行為を阻止することは立派である。だが もし阻止できないなら、不正行為に加わってはならない。
- 逆境のうちにあってなお、為すべきことに心を配ることは、偉大なことである。
- 破廉恥な行為に対して悔恨を覚えることは、生活の救いである。
- 劣った者に支配されることは、辛いことだ。
- 説得に当たっては、言葉はしばしば黄金よりも有力である。
- 何もかも信ずるのではなく、よいと認められたものを信じることだ。前のやり方はおろかであり、後のやり方は思慮ある人の為すことである。
- 他人の落ち度よりも、自分の落ち度を咎める方が良い。
- 度を過ごして欲求することは、大人にではなく、まさに小児に属することである。
- 競って求むべきものは、有徳の行為であり 実践であって、言葉ではない。
- 立派な行為を賞賛することは、立派なことだ。というのも、破廉恥な所業を賞賛することは、欺瞞と詐欺行為だからだ。
- 技術にせよ 知にせよ、それを学ばぬ限り、達成しえない。
- いつも先に先にと延ばすことは、行為を完成させない。
- あるものへの激しい欲求は、その他のものに対して魂を盲目にする。
- 全ての人々に対して、邪推深くなく、慎重に、しかも断固たる態度で臨め。
- 苦労はどれもみな、苦労の目指すものを獲得するか、やがて到達することを知っている場合は、休息よりも心地よいものである。だが、首尾よくいかなかった時はどの場合でも、苦労は等しく苦痛で悲惨なものなのだ。
- 卑しいことは、たとえ君がただ一人でいる時でも、言ったり行ったりしてはならない。ほかの人々の対してよりも、もっと自分自身に恥じることを学べ。
- 異国での生活は、自足ということを教えてくれる。パンと藁のベッドは飢えと疲れにとってこの上なく快い治療だからだ。
- 祝祭なき人生は、宿なき長道中である。
- 自ら進んで為す苦労は、嫌々ながら為す苦労の忍耐を一層容易なものにする。
- 絶え間ない苦労も、その苦労に慣れることによって、一層軽いものとなる。
人物評価について
- 破廉恥なことを為す者は、まず何よりも自分自身に恥じなければならない。
- (他人の)不手際を穏やかに辛抱することは度量が大きい。
- 憎むべきは、現に不正をなす者ではなく、(不正をなさんと)意欲する者なのだ。
- 下らぬ連中が非難しても、優れた人は意に介さない。
- 骨の髄まで金銭の奴隷となっている者は、決して公正ではありえない。
- 思慮正しい人の希望は、達成しうるものだが、思慮なき人々のそれは、不可能である。
- きちんとした性格の人々は、その生活もまた よく整っている。
- 本物の人物であるか そうでないかは、単にその人物のなす行為からだけでなく、その欲するところからも(見分けがつく)。
- 人の言に異を唱えてばかりいる者、口数多く喋る者は、必要なことを学ぶのに生来不向きである。
- 嫉妬深い人は、自分自身を、敵であるかのように苦しめる。
- 正しい愛は、美しいものを傲慢とは全く無縁な仕方で欲求することである。
- 他人のことにはせわしなく首をつっこむが、自分のことに全く無知であるのは恥ずべきことである。
- 言葉では万事全てを(やってのけ)、しかし実際には 何ひとつ実行しない者どもは欺瞞家であり偽善家である。
- 寛大で物惜しみしない人というのは、お返しを当てにする者のことではなく、自ら進んで善行を施す者のことだ。
- (自分では)あらゆることを話しながら、(人の言うことを)聞こうとしないのは、貪欲というものである。
- 人を口車にのせたり、真剣に語る人が、老人としては面白味のある人物なのだ。
- より強い者と戦う者は、悪い評判に終わる。
- 卑しい人たちは、苦境においてなした誓いを、一度彼らが脱するや、守りはしないのだ。
女性について
- 女性は弁舌を修練すべきではない。それは危険なものだからだ。
- 女性に支配されることは、男性にとって この上ない非道の業である。
- 女は意地悪さという点で、男よりもはるかに鋭い。
- 女性にとって寡言が飾りである。飾りの簡素さということもまた美なのだ。
愚かな者、無知について
- 愚かな者たちにとって、その教師となるのは道理ではなく、むしろ不幸の方である。
- 過ちの原因は、より良いものについての無知である。
- 無知な者どもを褒める人は、彼らを大いに傷つけることになるのだ。
- 無知なものたちにとっては、支配することよりも支配されることの方が一層よいことだ。
- 愚かな者たちが、人生を嫌悪しながらも、生きたいと思うのは、冥府(ハデス)を恐れるからなのだ。
- 愚かな者たちは、生活を楽しむことなく生きている。
- 愚かな者たちは、長い人生を楽しまないで、そのくせ長い人生を切願している。
- 愚かな者たちは、現にないものを切望し、現にあるもの、それも はるか昔に過ぎ去ったものよりも一層有益なものであるのに、その現にあるものを打ち捨てて構わないのだ。
- 愚かな者たちは、一生かかっても、一人として悦ばせることはできないのだ。
- 愚かな者たちが生きることを熱望するのは、死を恐れるからなのだ。
- あらゆることに無知であってはならないというので、何もかも全てを知ろうとすると望んではならない。
美について
- 何か美しい者を常に考察することは、神的な知性に属することだ。
- いかなる快楽でも良いというのではなく、美に関わる快楽を選ぶべきだ。
- 美しいものは、学習が苦労の末に作り出すが、醜悪なものは、苦労なしにひとりでに収穫される。
- 力と美しい姿形は青年の善であり、思慮節制は老人の花である。
- つり合いの取れていることが、全てにおいて、美しい。過剰も不足も美しいとは、私には思わない。
人間関係について
- 自分で褒めるよりも他人に褒められる方が良い。
- 隣人たちに気に入られようと望むことは破滅を防ぐ。
- 好意を施そうとする場合、受ける側の人物に前もってよく注意を払っておかなければならない。その人物が卑劣な男で、善の代わりに悪を返すことがないように。
- 人は、先でより大きいなお返しをすることを前もって弁えて、行為を受けなければならない。
- 誰ひとりとして愛することのない者は、ただ一人の人からも愛されないと私には思われる。
- わずかな行為でも 時宜を得たものなら、受け入れる人にとっては この上なく大きいものだ。
政治について
- 最大の技術である政治術を学びつくせ、そして苦労を求めよ、その苦労から人間どもにとって偉大なもの、輝かしきものが由来するのだ。
- 民主制のもとでの貧困は、君主制のもとで幸福と呼ばれているものよりも価値のあるものとされるべきである。それはちょうど、自由が奴隷状態よりも価値あるものとされるのと同じなのだ。
儲けと欲望について
- 財貨への欲望は、もしこれで満足という思いがその欲望に歯止めをかけることができないなら、極度の貧乏よりもはるかに厄介なものだ。というのも、一層大きな欲望は不足を一層大きなものにするからだ。
- 不当な儲けは、徳の損失をもたらす。
- 不当な儲けを期待することは、損失のはじまりである。
- 善からぬ所業から生じた富は、この上なく公然明白な恥辱を自ずから抱え込むのだ。
思慮について
- 時々、若者に分別が、老人に無分別が見られることがある。というのも、思慮を教えるのは時だけでなく、時宜を得た教養と素質だからだ。
- 今にも起こりそうな不正を監視するのは思慮の働きだが、生じた不正に報復しないのは、鈍感のなせる業である。
- 栄誉は、栄誉を授けられる場合にもよく弁えている、思慮正しい人々にとっては、大きな価値がある。
- 現に持っていないものについて くよくよせずに、むしろ持っているもので心楽しく過ごす人は、思慮ある人である。
- 貧乏に立派に耐えることは、思慮ある人に属することである。
欲求と節制について
- 父親の節制は、子供たちにとって最大の教訓である。
- 贅沢な食事を用意するのは幸運、自足した食事を用意するのは節制。
- より多くのものを欲求することは、イソップ寓話の犬のように、現にあるものを失うことだ。
- 欲望と戦うことは辛いことだ。だがそれに打ち克つことは、思慮分別ある人に属することである。
- 倹約も飢餓も有益である。消費もまた時宜にかなうものであれば有益である。だが、この点を弁え知ることは優れた人に属する。
正義と不正について
- 為すべきことを為すのが正義であり、為すべきことを為さず、打ち捨てて顧みないことが不正なのだ。
- 正義に反して害をなすものどもは、全て何としても殺すべきである。このことを実行する者は、いかなる社会秩序にあっても、快活、正義、勇気、財産の分け前に一層多く与ることになるであろう。
- 人は、不正をなす者どもを出来る限り罰しなければならないし、そのままに打ち捨てておいてはならない。これを為すことは正しく善であるが、為さぬことは不正で悪なのだから。
- 最大の名誉を分け与える人は、正義と徳の最大の分け前に与っている人なのだ。
法について
- 法律は、各人が互いに傷つけあわない限り、それぞれの能力に応じて生きることを妨げはしない。嫉妬は抗争の始まりをなすからだ。
- 法律は人間生活の為になることを願っている。それはしかし、人間たちが自らその法律から恩恵を受けたいと願う時にのみ、可能となることなのだ。というのも、法律が法律固有の徳を示すのは、法律に従う者たちに示すのだからである。
- 法律や支配者や賢明な人に従うことは秩序正しいあり方なのだ。
魂について
- もし身体が、その全生涯にわたって苦痛を被り手ひどい目に合わされてきたというわけで、魂に対して訴訟を起こしたとして、しかも自分が訴訟の裁判官であるとすれば、次の理由によって喜んで魂に有罪を宣するだろう。すなわち魂は、ある時には、世話を顧みないことによって身体を破壊し、ばらばらに引き裂いてしまうからなのだ。
- 自分自身より以上に、他の人々を恐れてはいけない、また誰一人見るはずがなかろうと、万人が見ることになろうと、傷つけるようなことをしてはならない。むしろ、何よりも自分自身を恐れなければならない、そしてこのことを、魂のうちに掟として据え置かねばならない。そうすれば、ふさわしからぬことは何ひとつ仕出かさなくなるのだ。
- 手に負えぬ苦痛を、理性の力によって、腑抜けとなった魂から、追い出せ。
運命について
- 行為の開始は勇気だ、だが最後を握るのは運命なのだ。
- 隣人の不幸を喜ぶ者たちは、運命の変転が万人に共通したものだということを弁えていない。彼らには、彼ら自身の固有の喜びというものがないのだ。
その他
- 勇気は、損害を小さなものにする。
- 沈着な知恵は、全てに優って価値あるもの。
- 大仕事は、それが国に対して戦を仕掛けるといったものでも、協調によってのみ実行可能なのであり、他の者によっては不可能なのだ。
- 子育ては躓きやすいものだ。それというのも、成功した場合も、争いと心配に満ちたものであるし、失敗した場合は、他の非難とは比べ物にならないものだからだ。
- 貧乏と富裕は不足と過剰の名称だ。つまり、不足している人は富裕ではなく、不足していない人は貧乏ではないのだ。
- 君が多くを望まないのは、少しのものも君には多いものに思われるだろう。小さな欲望は貧乏を富裕と力の等しいものにするからだ。
- 家庭や人生に病が生じるのは、身体に病気が生じるのと同様なのだ。
- 暮らしの上でどうしても忍ばねばならぬ事柄を甘受しないのは、無分別というものなのだ。
- 老年とは全体としてずれていくことだ。全てを持っていながら、その全てにおいて何かが不足しているのである。
- ある人々は、可死的なものが分解してしまうことを理解せず、他方生きている間の悪行は意識しているが、この人々は、死後の時期について偽りの物語を拵えあげて、生の時期を、不安と恐怖のうちに、苦しめ悩ませるのである。
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