「名誉白人」と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?
有色人種のアジア人である日本人が「名誉白人」とは一体どういうことなのかを解説していきます。
※この記事は日本人の民族としての優位性などを主張するものではなく、過去の問題を解説するものです。
名誉白人とは何なのか(歴史)
そもそも、本来白人ではない日本人が「名誉白人」とはどういうことなのか?
その理由には当時の世界を知る必要があります。
帝国主義の時代
近代の世界では、大航海時代の到来を経て、ヨーロッパ諸国が南・東南アジアや南北アメリカ、アフリカ大陸などに進出し、各地を植民地とした。
その過程で、白人たちは様々な有色人種に出会った。
当時世界の中で最先端の技術を持っていたヨーロッパ諸国は、原始的で「遅れている」原住民を「教化」するという大義名分が存在したために、積極的に植民地支配を行った。
そして、自分たちより「遅れている」有色人種は、民族としても劣性であり、自分たち白人こそが「優越性」を持っているという考えが徐々に浸透していった。
東アジア及び日本
ヨーロッパが世界の中心であると考えられていた当時は、日本は極東の島国とされていました。
古代から発展してきた中国に関してはヨーロッパ諸国も警戒していたようで、近代前半には「眠れる獅子」と呼ばれて恐れられていたが、日清戦争の敗北で中国の弱体ぶりが明らかとなり、列強(ヨーロッパ諸国)による中国分割が始まった。
日本はロシア、ドイツ、フランスの三国干渉により獲得した領土の一部(遼東半島)を清に返還した。
これは、日本の進出を警戒する動きではあるが、武力行使ではなく勧告するだけで要求を呑む弱小国家と侮られていた。
しかし、当時の日本国内では「臥薪嘗胆」が叫ばれ、特にロシアに対する反発が強まった。
日露戦争という革命
その後、ロシアの南下政策を警戒するイギリスと日英同盟を結び支援を得た日本は日露戦争というロシアとの全面戦争に踏み切った。
日本にとって日露戦争は、ヨーロッパ諸国と戦った最初の戦争であったが、日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破るなど、快勝を続け、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、実質的に日本の勝利と言えるポーツマス条約を締結し講和した。
この日露戦争の勝利が「世界を変えた」と言っても過言ではありません。
有色人種の国が白人国家のなかでも最強と目されていたロシアを倒したことにより、それまでの世界を支えていた白人優位という価値観・秩序は音を立てて崩れ去りました。
日露戦争の勝利は、中国やインド、東南アジアや中東など、白人により支配されている様々な地域の人々に希望を与える出来事でした。
しかし同時に、優越性を信じていた白人から見ると日本は脅威であり、アメリカでの日本人移民排斥運動やドイツのヴィルヘルム2世の「黄禍論」の提唱など、アジア人を恐れる動きに繋がりました。
名誉白人の事例
先にも述べた通り、日露戦争の勝利以降は、日本が欧米列強と並ぶ近代国家として認められつつありましたが、「名誉白人」という言葉は特に使われませんでした。
しかし、2つの事例において日本人は(日本人以外を指す場合もあるが)「名誉人種」でした。
ヒトラーとナチスドイツ
ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーはアーリア人をナチスの指導者アドルフ・ヒトラーはアーリア人の人種的優越を信じ、文化破壊種であるユダヤ人を迫害、虐殺した。
日本人はもちろんアーリア民族ではないが、日独防共協定や日独伊三国同盟などを締結する際に、日本人を「名誉アーリア人」として(政治的に)扱った。
ヒトラーの日本観に関しては様々な話がある。
ヒトラーが獄中で執筆した書籍『我が闘争』では、「日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎない」、と書いている他、日本人を侮蔑する文章が複数あったとされます。
一方で、ヒトラーは日本の神道を高く評価していたり、天皇による「君主政治」を完全に近い形で実現していた日本を尊敬していたという話もある。
※ヨーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという関係が、ごく自然な形で成り立っていたのである。
ヒトラーが自殺直前に書き残した著書『ヒトラーの遺言』には、日本を好意的に見ていたことが記されている。
以下引用
「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう。
日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。
他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。
さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」
『ヒトラーの遺言』
南アフリカ共和国におけるアパルトヘイト(人種隔離政策)
アフリカ大陸の南端にある、南アフリカ共和国では、アパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が行われた。
アパルトヘイトは1948年~1991年まで続いた政策で、白人優位主義に基づいて黒人やアジア人などの有色人種を差別するものだった。
具体的には、バス、公園、学校などのあらゆる場所で有色人種は差別された。
しかし、日本は経済的に繫栄しており、南アフリカ共和国の経済にとって重要なパートナーであったことから、「名誉白人」として「白人が得ているのと同等の権利」を獲得した。
人種別に居住地などを定めた集団地域法によって、都市の市街地はおおむね白人専用の居住区となり、非白人はその外部への移住を強制された。
しかし、日本人に限らず、貿易や外交目的で南アにやってきた外国人駐在員は、肌の色や国籍にかかわらず、白人居住区での生活を許されていた。
故に、「名誉白人」というのは、「名誉アーリア人」同様に形式的なものであり、決して日本人を民族として優秀であると考えていたわけではないことが分かる。
また、反アパルトヘイト運動が活発になるにつれて、「名誉白人」という呼称は「有色人種なのに同じ有色人種を差別する民族」という人種差別の加担者(共犯者)としての性格が強調されるようになった。
日本の反アパルトヘイト運動の有志が 「われわれは『名誉白人』という不名誉な称号を拒否する」と宣言した。
まとめ
「名誉人種」と言うのは、民族の優秀性を示すものではなく、政治的・経済的な利益のために名目として「名誉アーリア人」や「名誉白人」と呼ばれていただけでした。
「白人が他の人種よりも優れているはずだ」という思想のもとに生まれたものなので、人種差別撤廃、全ての人種の平等を目指す現在では、「名誉白人」などと言う名称は差別を助長するものでしかありません。
しかし、日本が欧米列強に並ぶほどの経済・軍事発展を実現し、有色人種に希望を与えたことは確かな事実です。
外国人に対して自分を卑下するようなことは馬鹿馬鹿しい行為だと思います。様々な人種・民族を尊重しながらも、日本人としての誇りを持つことが大切です。
参考
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