今回は、ルネ・デカルトの「我思う、故に我あり」を対話形式で解説します。
※投稿者の解釈は、一般的な学術書等の解釈と異なる場合があります。また、かなり簡単に表現しようとしているため、本来の意味が伝わらない可能性があります。予めご了承ください。
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登場人物

哲学を学びたい男子大学生(19歳)
高校までは真面目に勉強していたが、大学に入って目標を失ってからは怠惰な生活を送っている。

近代フランスの哲学者デカルト
合理論の創始者
我思う、故に我ありとは?

「我思う、故に我あり」ってどういう意味なんですか?

思考することが私の存在を証明するのだ。

思考が存在を証明?

思考の主体と客体は知っているか?

主体と客体って、自分と相手みたいな話ですか?

いや、全然違う。例を挙げて説明すると、君は今、「我思う、故に我あり」について考えているね。

そうですね。

この場合、思考の主体は「君」という人間であり、「我思う、故に我あり」という考えている内容が思考の客体。

考えている「人」が主体で、内容が客体ってことですか?

間違ってはないんだが、思考の主体は人間である必要はない。

人間以外でも良いんですか?

思考さえしていれば、幽霊や人工知能でも問題ない。要するに、思考できれば何でも良いんだ。

それが思考の主体と客体なんですね。

そして、「我思う、故に我あり」とは、「思考の存在は、思考の主体を証明する」という意味だ。

証明するってどういうことですか?

簡単に言うと、「思考が存在していれば、思考の主体も存在しているはずだ」という意味だ。

思考の主体の存在を示す言葉だったんですね。
「我思う、故に我あり」の経緯

「我思う、故に我あり」の意味は分かったんですが、何故こんなことを考えたんですか?

それは、私があらゆるものを疑ったからだ。

「疑う」って言うと、イギリスの哲学者ヒュームの懐疑主義も有名ですよね。

ヒュームと私は、実は正反対の立場にある。私が理性を重視する(大陸)合理論なのに対して、ヒュームは経験を重視するイギリス経験論だ。

でも、「疑う」っていうのは共通してますよね?

反対の立場で考えていたはずなのに、結局行きつく先が同じと言うのは皮肉なものだ。

それで、デカルトさんは何故「疑った」んですか?

私は、「絶対に正しい」と言えるものを探したのだ。間違いを犯さぬように。

間違いを犯さないことと何か関係があるんですか?

私は、「人間が間違えるのは間違った知識を持っているせいだ」と考え、徹底的に間違った知識を排除しようとした。

間違いを0にするなんて可能なんですか?

実際、「絶対に正しいと言える知識」なんてものはほとんど存在しない。だが、疑いようのないものが、確かに存在する。

それは一体何なんですか?

疑いようのないもの、それは「私」、「自我」だ。

私?自我?どういうことですか?

私は、あらゆるものを疑った。しかし、今あらゆるものを疑っている「私」という存在は疑いようのない存在なのではないか、と考えた。

それが、「我思う、故に我あり」ってことですか。

そうだ。私はあらゆるものを疑ったが、「私」、自我の存在だけは疑えなかったのだ。

それで、何か良いことがあるんですか?

ある。「私」の存在だけは絶対に正しいと言えるのだ。絶対に正しいと言えるものを一つ発見しただけで、大きな成果なのだ。

「我思う、故に我あり」は哲学において、大きな発見だったんですね。

そうだな。もっとも、ヒュームは自我の存在をも否定したが。

自我まで否定したんですか・・・とりあえず、今日は色々と教えていただきありがとうございました。
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