今回は、近世の哲学者キルケゴールについて解説していきます。
絶望『死に至る病』
キルケゴールは、著書『死に至る病』において、「絶望」について語っています。
キルケゴールによると、
何かに絶望することは、実は自分自身に絶望することであり、それは本来の自己自身から逃げ出そうとすることである。
また、絶望には2種類の方向性があるようです。
- 現実から目を背けて理想を追い求める
- 理想を忘れ、現実だけを見ること
具体的に言うと、前者は現実世界で努力することを完全に諦め、夢想・妄想に専念することであり、後者は自他の理想を嘲笑し、現実の世間的な成功(金、名誉など)にしか関心を持たないことです。
この観点に基づいて、キルケゴールは、無限性と有限性、可能性と必然性という二つの軸を置き、両面から絶望について論じています。
無限性と可能性が理想を追い求める絶望であり、有限性と必然性が現実に固執する絶望です。
- 無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。
- 有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。
- 可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。
- 必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。
『死に至る病』では、上記のように表現されていますが、正直よく分からないと思うので、以下で解説します。
無限性の絶望
キルケゴールは、無限性の絶望を「想像的なもの」として規定します。これは、「夢想」や「空想」に近いものです。
彼は、『死に至る病』において、以下のように語ります。
無限になったつもりでいる人間の生き方、あるいはただ無限でのみあろうと欲する人間の生き方は全て、いや、人間の生き方が無限になったつもりでいるか、あるいはただ無限でのみあろうと欲する瞬間瞬間が、絶望なのである。
要するに、無限の生き方というのは、絶望を生み出してしまいます。
私たちは、別の自分を空想して、現実逃避することがあります。
もし億万長者だったら、美男美女であったら、スポーツ選手や芸能人であったら、東大に受かるぐらい賢かったら・・・など、様々な想像(妄想)があるでしょう。
もちろん、このような想像は私たちに生の可能性を示してくれるという良い効果もあります。
仮に、何も想像できなければ、現実を単に生きることしかできず、極めて貧しい生となります。
しかし、問題は想像が現実から離れて空想化することだ。
空想は私たちが本当になすべき事柄、あるいは直面すべき状況から逃避してしまうため、現実に即さない空想は、一種の絶望なのです。
有限性の絶望
有限性の絶望は、無限性とは反対です。現実世界、世間の基準という有限性に固執し、自分を現実や世間の基準に合わせて自分の理想を完全に捨て去るところに、絶望があるのです。
例えば、幼い子供が「ノーベル賞をとりたい!!」とか、「オリンピックで優勝したい!!」みたいな壮大な夢を語った時に、「絶対無理」とか、「夢見すぎだ」と言って否定する人はこの典型です。
有名な大学に進学し、大企業に就職することだけが一番幸福な人生と考え、サラリーマン以外の生き方を否定する人も、有限性の絶望に陥っていると言えます。
要するに、自分の価値基準を持たず、世間や他人に流されてばかりの人は、有限性の絶望があるのです。
可能性の絶望
可能性の絶望とは、可能性だけを信じて、現在を見ない絶望のことであり、無限性の絶望と似ています。
キルケゴールによると、
自己は、今ある自己においてのみ、自己自身になることができる。今ある自己を引き受けない限り、自己はいつまでも空想の世界をさまよい続けるのだ。
私たちは、どれだけ努力しても、他人になることはできません。
故に、理想の自己になるためには、今ある自己を受け入れた上で、今ある自己を変えるしかありません。
無限の可能性に思いをはせたところで、現実の自己に向き合わなければ、理想の自己になることはできません。
可能性だけを考えて、現実を見ない人には、希望はないのです。
必然性の絶望
必然性の絶望とは、全ての物事が必然であると考える絶望であり、理想を失っているという意味で、有限性の絶望に似ています。
簡単に言うと、「自分が何をしても、未来は既に決定しているから、全ての物事がどうでもいい」と考えてしまうような絶望のことです。
キルケゴールは、『死に至る病』において、以下のように語ります。
気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生き返るのである。
必然性の絶望に陥っている人には、何よりも可能性が必要なのです。
「全ての事物は決定している」と考えて絶望している人には、それ以外の可能性というものを提示することで、希望を見出すことができるようになります。
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