人間は自由という刑に処されている サルトル

名言
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今回は、サルトルの格言「人間は自由という刑に処されている」について解説していきます。

意味

私たちは、日々生きていて、時々「不自由だ」と思うこともあるでしょう。
しかし、サルトルによると、「人間は自由という刑に処されている」のです。

簡潔に言うと、

人間には本質が存在しないため、人間は強制的に自由な状態に置かれ、無数の責任を常に伴う

という意味です。

仮に、人間が身体や精神の中に本質を持っているとしたら、人間の思考や行動は本質の枠組みの中に収まるはずですが、人間は自由な生き物です。

生まれた瞬間から自分の人生の全てが決まっている人はいません。

しかし、サルトルによると、ここで言う「自由」は隷属や束縛から解放されたような喜びに満ちた自由ではなく、むしろ不安にまみれた自由です。

人間が完全に自由だとすると、人間は、自らが自由に選択した行動を正当化する根拠を一切持たず、自分の行動によって自分と言う存在を決定し、それに対して全面的に責任を負わざるを得ない運命にあるのです。

つまり、自由には必ず責任が伴うものであり、人間は常に自由であるので同時に常に責任を負うことになるのです。

これが、サルトルの言う「自由の刑」です。

責任転嫁

例えば、半日以上、水以外何も口にしていなくて、空腹の人がいたとします。

その人が道を歩いていると、偶然美味しそうな食べ物がすぐに食べられる状態で置かれていました。その食べ物は、誰か知らない他人の物のようです。

しかし今、近くには人の物音は一切聞こえず、遠くまで見渡しても人一人いません。

この状況で、果たして食べ物を食べるでしょうか?

人間の本質が本能ならば、迷わず食べるでしょう。しかし、現実の人間は、食べるかどうかを悩み、自分なりに考えた上で、行動を選択するでしょう。

この人がイスラム教徒だったら、恐らくすぐに食べるでしょう。と言うのも、イスラム今日の聖典『コーラン』の教えでは、自分が飢餓や貧困に苦しんでいる時には、他人の物を勝手に食べても罪には当たらないとされているのです。

故に、他人の物を食べても、彼ら自身が責任を負うことはなく、「聖典の教えに従っただけだ」と責任転嫁することができるのです。

この人がキリスト教徒ならば、逆に、安易に食べることはないでしょう。聖書では、他人の物を無断で食べるのは盗みと言う罪悪になるとされています。

また、宗教を信じず、現在の法律や道徳を重視する人も、同様に食べるのをためらうでしょう。彼らも、宗教の信者が聖典に従って行動するのと同じように、法律や、世間一般の道徳に合わせて行動しています。

このような人たちは、過去の例を絶対的な基準とみなし、それに沿うような形で現在の行動を選択しています。宗教や伝統にこだわらないと思っている人でさえも無自覚に自分の過去の経験などを基準に行動しています。

人間は自らの行動によって形作られる

人間は、生まれた瞬間に性格や得意不得意、好き嫌いなどが全て決まっているわけではありません。
生まれつき善や悪に染まった人間もいません。善行をするから善人になり、悪行をするから悪人になるのです。

つまり、人間は自分の行動によって、その都度自分を形作っていくのです。

仮に、神や宗教、習慣などに全面的に従って生きれば、本質以外のことをしない物と同じ存在です。

物である状態から脱して、人間らしく実存しようとすると、完全な自由であると同時に、無数の責任を負わなければならないのです。

だから、人間が実存する人間である限り「人間は自由という刑に処されている」のです。

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