今回は、ヒュームの名言「自我は、知覚の束にすぎない」について解説していきます。
意味
「自我は、知覚の束にすぎない」とは、どういう意味でしょうか?
デカルトが論理を重視するプラトンの伝統を受け継いだのに対して、ヒュームは感覚器官による経験を重視するアリストテレスの経験主義の伝統を受け継ぎ、あらゆる知識は経験に基づくと考えました。
そして、ヒュームは経験に基づかない様々な物事を疑いました。
その中で、ヒュームは人間が知覚する経験以外には客観的な世界は存在しないと考えました。
だから、デカルトが「自我」の存在を認めたのに対し、ヒュームは「自我」の存在をも疑いました。
その結果、ヒュームは「『自我』は知覚に基づくものであり、それ以上の確固たる特定の存在ではない」と考えました。
つまり、ヒュームは、デカルトの主張するような客観的な自我は存在しないと考えました。
現代科学における自我
現在では、脳に関する研究が盛んに行われ、脳の機能もある程度は解明されています。
しかし、自我の機能を担当する場所は未だによく分かっていないのです。
現在の研究によると、自我は脳の様々な部分が連携してできるものであるから、自我は脳の広範囲に分散しており、その実態がまだよく掴めていない状況のようです。
「自我は、知覚の束にすぎない」というヒュームの主張も、少しは理解できるのではないでしょうか。
自我から解放される
「自我」というのは大切なものであると同時に、様々な問題を引き起こします。
仏教でも、「自我を捨て、我執を打ち破る」というのは、苦しみから抜け出すために非常に重要なことです。
人生における苦悩の大半は、自我に関係していると言っても過言ではありません。
例えば、「他人の目を気にしたり、自分がどういう人間なのかで悩んだり、自分の欠点に自己嫌悪したりする」のも、自我に執着しているからです。
また、他人に中傷されたり、大勢の前で恥をかいたりすると、良い思いがしないのも、「自我」が傷つけられたと感じるからです。
しかし、「自我」なるものが本当は存在しないとしたら、「自我」を守る必要も、「自我」について思い悩む必要もありません。
無我になる
「自我」が存在しないと考えて、「自我」から解放されて、「無我」になるにはどうすればいいのか?
そこで、大切なのが「自我は、知覚の束にすぎない」というヒュームの言葉です。
「自我」は単なる自身の経験の積み重ねであり、それ以上の特別な意味は持っていないと考えれば、「自我を必要以上に気にする」ことが如何に馬鹿馬鹿しいかが分かると思います。
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