今回は、ルネ・デカルトの名言「我思う、故に我あり」について解説していきます。
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意味
「我思う、故に我あり」、一度は聞いたことがあるでしょう。
しかし、意味を正確に理解している人は意外と少ないかもしれません。
「我思う、故に我あり」とは、「思考の存在は、思考の主体を証明する」という意味です。
と言っても、まだよく分からないですね。
ここから、思考の主体と客体について解説します。
思考の主体と客体
「主体」「客体」という言葉を知っている人は多いでしょう。
ここでは、「思考の主体」「思考の客体」について説明します。
人間が何かを思考している時、この思考している人を「思考の主体」と呼び、その人が思考している対象を「思考の客体」と呼びます。

例えば、上のイラストのように、喉が渇いた男性がお茶やジュースなどの飲み物について考えているとします。
この時、男性が思考の主体であり、飲み物が思考の客体です。
しかし、「思考の客体」というのは、ジュースのように具体的とは限らず、抽象的な脳内の想像でも思考の客体に当てはまるのです。
同様に、「思考の主体」も生身の人間である必要はなく、思考する幽霊でも、人工知能でも構わないのです。
そして、「思考の存在は、思考の主体を証明する」とはどういう意味かと言うと、
「思考には必ず主体が存在するので、思考が存在していれば、思考の主体も存在しているはずだ」
ということです。
そしてその思考の主体が「我」の場合、思考の存在は「我」の存在を証明することになるため、「我思う、故に我あり」となるのです。
要するに、「我思う、故に我あり」の「我あり」は、思考している主体が存在するということであり、思考の主体が生きた人間であることを証明するものではありません。
経緯
ここからは、なぜデカルトが「我思う、故に我あり」という考えに至ったのかについて解説します。
間違いを避けられない理由
人間は完全な存在ではないので、必ず間違えることがありますが、多くの人はそれが当たり前のことだと考え、あまり疑問を持ちません。
しかし、デカルトは「なぜ人は間違いを犯すのか」を考えました。
デカルトは、「人が間違いを避けられないのは、自分が正しいと信じている間違った知識のせいだ」と考えました。
仮に間違った知識を基にして思考すれば、どれだけ論理的に考え、完璧な推論をしたとしても、間違った結論を導いてしまいます。
確かに、私たちは世間一般で信じられている「常識」を正しいと思い込んでいますが、「常識」などと言うものは時代が変われば180度変わることもあり、同時代でも違う地域では全く違う常識が信じられていることも珍しくありません。
だから、間違いを避けるためには、自分の中にある知識を全て排除して、正しい知識のみで考える必要があります。
全面的に疑う
そこで、デカルトはあらゆるものを全面的に疑って真偽の定かではない知識を全て捨て去り、新たな知識を蓄えようとしました。
デカルトは、「人生において真理を追求するには、自分の信じていることを全て、少なくとも一度は疑う必要がある」と考えました。
そうして初めて、間違った知識を取り除くことができると考えたのです。
疑いようのないもの
実際に、デカルトはあらゆるものを疑いました。
自分の経験に基づく知識や人から聞いた知識、更には数学や論理学までも、「実は間違っているのではないか」と考えました。
そして、「この世界には疑いようのないものなどほとんど存在しない」という悲しい事実に気づいてしまったのです。
デカルトは知識の不確定さを痛感しました。
しかし、デカルトは諦めずに、「疑いようのないものは存在するか?」という問題について考えました。
「我」は疑えない
デカルトはあらゆるものを疑いましたが、「疑う」(懐疑)というのは思考の一種です。
そして、「思考」が存在するということは、「思考の主体」の存在を証明しているので、「懐疑」の存在も「思考の主体」の存在を証明しています。
つまり、「懐疑している思考の主体」は疑いようのないものであるから、「あらゆるものが疑えるわけではなく、少なくとも思考の主体である『我』の存在は疑いことができない」という結論に至りました。
ここから、「我思う、故に我あり」という格言につながるのです。
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