デイヴィッド=ヒュームの哲学 懐疑論

哲学
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今回は、18世紀イギリスの哲学者、デイヴィッド=ヒュームについて解説します。

ヒュームとは?

ヒューム(1711~1776)・・・スコットランドで生まれ、イギリス経験論を徹底した。主著は『人間本性論』

※イギリス経験論・・・16世紀イギリスの哲学者・政治家のフランシス=ベーコンが創始した。人間の知識は、感覚的な経験から生まれるという考え方で、理性を重んじる大陸合理論に対立する。

歴史や政治経済にも精通していたヒュームは、『英国史』などがベストセラーとなり、高い評価を受けていたのに対して、哲学では懐疑論者として批判されることが多かった。

ドイツの哲学者カントが著作『プロレゴメナ』において「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的まどろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と評価したのは、ヒュームの死後、1783年のことだった。

ヒュームと知覚

ヒュームは、イギリス経験論の立場を受け継ぎ、知覚を重視した。

ヒュームは、知覚を「印象」と「観念」の2つに分けた。

印象・・・感情や感覚、感動などの力や活気を伴った知覚

観念・・・思考や記憶等における、印象の模造、再現

観念は、印象から現れるが、印象が観念から現れることはない。

ヒュームは、複雑な観念(複合観念)でも、構成要素としての個々の観念に分解され、それぞれの観念は、必ず何かしらの印象から現れるものである、と考えた。

例えば、「本」や「偉人」、「観光地」のような抽象的な事柄を観念として持つ場合、普遍的な定義を思い浮かべるのではなく、自身がこれまでに知覚した具体的な「本」や「偉人」、「観光地」などが束となって表現している。

図形も分かりやすい例だ。

「三角形」を観念として持つ場合、「同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形」という三角形の定義を思い浮かべる人は数学者ぐらいで、他の人は自分が今までに見た(定義上は三角形ではないものも含めた)三角形をもとに考えるだろう。

プラトンのイデア論を説明される際によく用いられる話だが、「上の画像は何か?」と聞かれたら、多くの人は「三角形」と答えるだろう。

しかし、上の画像をよく見れば分かるが、三角形の頂点が丸まっていて、三角形の定義には当てはまりません。

それでも多くの人が「三角形」と答えるのは、過去に知覚した三角形の「印象」をもとに観念を持つからです。

その「印象」には、上の画像のような定義上は三角形でない図形も含まれています。

ヒュームと実体

ヒュームの少し前の哲学者バークリー(1685~1753)は、「存在するとは知覚されることである」と考え、心の外に物質世界が存在するという考えを否定し、心のみが実在すると考えた。(唯心論)

また、聖職者でもあったバークリーは、知覚の主体である心とともに、神は実在すると考えた。

一方で、「無神論者」とも言われたヒュームは、「あらゆる事物は人間の知覚経験によって得られた信念であり、知覚の他には何も存在しない」と考えた。

更に、デカルトが「我思う、故に我あり」として実在を認めた自我(心)に関しても、「自我(心)は知覚の束に過ぎない」として、実在を否定した。

また、ヒュームは因果法則も否定しました。

例えば、私たちは日常のあらゆる事柄に対して、(無意識に)因果関係を見出している。

  • 物が下に落ちるのは重力が働いているから
  • スマホやパソコンが動くのは電気が供給されているから
  • 冬に風邪を引くのは気温が低いから
  • 眠いのは寝不足だから
  • ガラスが割れたのはボールが当たったから
  • 黒板に文字が書かれているのはチョークで文字を書いたから

上記以外にも、あらゆる場面で私たちは因果関係が存在するのを当然のことと考えています。

しかし、ヒュームは因果関係を否定します。

私たちは、重力が働いている具体例(物が下に落ちる様子など)は何度も知覚していますが、重力そのものを知覚することはできません。

同様に、スマホやパソコンが充電しないと動かないことは知覚していても、実際に電気によって動いていることを知覚していません。

また、「冬に風邪をひく」ことの原因は無数にあります。

  • 病気が流行していたから
  • 部屋が乾燥していたから
  • 寝不足や過労で体力が低下していたから

など、「気温が低いから」以外にも原因はあります。

「眠いのは寝不足だから」というのも同様に、体調不良や酸素欠乏など、原因は他にも考えられます。

そして、「ガラスが割れたのはボールが当たったから」や、「黒板に文字が書かれているのはチョークで文字を書いたから」のような、反論の余地がなさそうな場合にも、因果関係は認められません。

私たちが知覚しているのは、「ボールがガラスに当たった」瞬間と「ガラスが割れている」状態だけで、本当にボールがガラスを破壊したかは分かりません。

ボールがガラスに当たったその瞬間に、遠くからライフルでガラスが撃たれたかもしれませんし、ボールがガラスに当たった瞬間にガラスが自然に割れたかもしれません。

黒板の例にしても、私たちが知覚しているのは「チョークが黒板に接触した」瞬間と「黒板に文字が書かれている」状態だけで、本当にチョークが黒板に文字を表したかは分かりません。

チョークが黒板に接触した瞬間に、黒板から文字が浮かび上がってきたかもしれませんし、実は元々黒板に文字が書いてあったのを私たちが見ていなかっただけかもしれません。

要するに、私たちは独立した事象を知覚しているだけで、「因果関係」などと言う得体の知れないものを知覚することはできないのです。

では、私たちが「因果関係」の存在を信じているのはなぜか?

ヒュームは「因果法則は、観念についての習慣的な連想から生まれた一種の信念である」と考えます。

簡単に言うと、私たちは様々な事象を知覚、経験する中で「ボールがガラスに当たった」直後に「ガラスが割れている」状態を(映像やイラストなども含めて)何度も知覚しています。

「事象Aが起こった後に事象Bが起こった」ことを習慣的に知覚していたら、私たちは事象Aと事象Bには因果関係があると考えるようになるのです。

例えば、日本では「晴れ男(女)」や「雨男(女)」と呼ばれる人がいます。

そのような人たちは、1回、2回の天気でそう呼ばれるわけではありません。
何度も何度も同じような天気に見舞われるから、そう呼ばれるのです。

同様に、私たちは因果関係を見出す際には複数回の知覚経験を経て、異なる事象が同時、もしくは連続的に発生していると考えるものです。

参考:ヒュームにおける知覚の二分説と神の観念

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